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MUNDUS MYTHICUS · CH. 02 · THE TEMPTATION OF COMPARISON

比較という誘惑

雷神は世界中にいる。洪水の話も、死んで還る神も、どこにでもある。だから神話は一つの源から広まったのだ——あるいは、人類の心は一つなのだ——と言いたくなる。この誘惑に、学者たちは百五十年前から繰り返し負けてきた。この章は、その失敗の歴史をたどり、似ていることから何が言えて何が言えないのか、線を引く。

PLATE 金枝
金枝, ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー, 1834年.
J・M・W・ターナー《金枝》(1834年、テート・ブリテン蔵)/撮影 DIDIER DESCOUENS、パブリックドメイン

何もかもが太陽になった

比較神話学という学問は、一つの発見から始まった。十八世紀末、サンスクリット語とギリシア語とラテン語が同じ祖語から分かれたことが分かった。言葉が親戚なら、神々も親戚ではないか。オックスフォードのマックス・ミュラーは1856年の論文で、この推論を神話に持ち込んだ。

ミュラーの説はこうである。太古の人々は太陽や夜明けを「彼は東から昇る」「彼女は逃げ去る」と語った。時代が下ると、人称代名詞の主が忘れられ、「彼」「彼女」が固有名になり、物語が生まれた。神話とは「言語の病」であり、神々の物語を遡れば、すべて太陽と夜明けの運行に還元できる——。ヘーラクレースの十二の難業は太陽の一年であり、ダプネーがアポローンから逃げるのは夜明けが太陽から逃げるのである。

この説は数十年で崩れた。あらゆる神話を太陽に還元できるなら、還元できないものは何もない。1870年、ある聖職者が『オックスフォードの太陽神話』と題する小論を書き、ミュラーの生涯そのものを太陽神話として「解読」してみせた。ミュラーは東方(ドイツ)から西(イングランド)へ渡り、日ごとに輝きを増し……。冗談だったが、方法の欠陥を正確に突いていた。

金枝篇の網

次に来たのはジェームズ・フレイザーである。『金枝篇』(初版1890年、第三版は十二巻)は、世界中の民族誌から「殺される王」「死んで蘇る植物神」の例を数千件集め、それらを一つの型のもとに並べた。オシリスアドーニスアッティスタンムーズ——第9章で扱う「還る神」たちは、フレイザーの網にかかって一つの神になった。

網は細かく、しかし文脈を通さない。エジプトの王の葬送儀礼と、ヨーロッパの農村の五月祭と、西アフリカの王の廃位が、同じ頁に並ぶ。それぞれの土地で、その儀礼が何を意味していたかは問われない。似ているという判断は常にフレイザーの側にあり、当事者の側にはない。オシリスは還らず冥界の王になり、バルドルは還らず、ペルセポネーは往復する。結末の違いは、型を作るときに消された。

ミュラーとフレイザーの失敗は、同じ一つの失敗である。似ているものを集めれば、似た型が出る。それは方法が正しいからではなく、集め方がそうなっているからである。

うまくいった比較

ではすべての比較が無駄かというと、そうではない。うまくいった例がある。

ジョルジュ・デュメジルは1930年代から、印欧語族の諸神話に共通する「三つの機能」を論じた。主権(祭司と法)、戦闘、生産(豊穣と富)。ローマの三大祭司がユーピテルマールスクゥイリーヌスに仕え、インドの身分制が祭司・王族・庶民に分かれ、北欧の神々がオーディントールフレイに整理できるのは偶然ではない、という主張である。

デュメジルの説が生き残ったのは、適用範囲を絞ったからである。三機能は印欧語族の内側でしか主張されない。エジプトにも中国にも当てはめようとしなかった。比較の網が届く範囲を、言語の系統という外部の基準で限定した。この限定こそが、ミュラーとフレイザーに欠けていたものである。

言語学が引いた線

ここで、言語学が持っている一本の線を借りる。同源と、並行である。

ゼウスユーピテル、インドのディヤウスは、名が同じ祖形に遡る。「輝く天の父」を意味する印欧祖語の一語が、三つの言語で別々の形に変わった。これが同源である。名の対応は音の変化の規則によって検証でき、反証もできる。

一方、雷神は世界中にいる。ゼウス、トール、インドラペルーンタラニス、日本の雷神、マヤのチャク、ヨルバのシャンゴ。だがこの八柱の名は、ペルーンとペルクナスを除けば、たがいに何の語源的関係もない。トールの名は「雷鳴」を意味するゲルマン語であり、インドラの語源は定まらず、チャクとシャンゴは印欧語族の外にいる。雷が神になるのは、雷がどこにでも落ちるからである。これが並行——独立発生——である。

同源は系譜の主張であり、証拠を要する。並行は機能の類似であり、それ自体は何も証明しない。二つを混ぜると、ミュラーになる。

本サイトが等価関係を二種に絞る理由

本サイトは、神格どうしの対応を「等価関係」として登録している。現在二百九十二組あり、その種類は二つしかない。

一つは identified——歴史的に同一視された、という関係である。ローマ人がギリシアの神々を自分たちの神の名で呼び、エジプトの神々をギリシア人がゼウスやディオニューソスと呼んだ。この同一視は当事者が行ったものであり、文献で確認できる。ギリシアとローマのあいだに四十二組、エジプトとギリシアのあいだに二十七組が登録されている。

もう一つは cognate——名が同じ祖形に遡る、という関係である。ゼウスとユーピテルとディヤウス。ペルーンとペルクナス。四十四組ある。

ゼウスの項目を開くと、この二種が並んでいる。ユーピテル・ディヤウス・テュールとは同源であり、アメンバアルマルドゥクティニアとは同一視された。前者は言語の系譜であり、後者は歴史の接触である。どちらも事実である。

登録していないのは、機能が似ているという関係である。ゼウスとトールは雷神どうしだが、等価関係にはない。トールと雷神(日本)も、ない。機能の類似は役割ページで横に並べて読めるようにしてあり、系譜の主張とは切り離している。

反例で締める

最後に、似ていて、しかしつながらない例を一つ置く。

ユダヤ伝承のリリスは、夜に現れて新生児と産婦を害する女性の悪霊である。メソポタミアのラマシュトゥも、産婦と新生児を襲う女性の悪霊である。職能はほぼ重なる。地理も隣り合っている。時代も、ラマシュトゥのほうが古い。同源を疑う条件は揃っているように見える。

だが、両者の系譜が直接つながることを示す資料はない。リリスの名はアッカド語のリリートゥに遡る可能性が論じられているが、リリートゥとラマシュトゥは別の悪霊である。名の対応が取れないかぎり、職能の類似は同源の証拠にならない。本サイトはこの二者を等価関係に登録していない。

似ている。しかし、つながらない。この判断を下せることが、比較神話学が百五十年かけて手に入れた、ほとんど唯一の成果である。以降の章では、この線を引いたまま進む。