バアル
Baal
レヴァントの北西セム世界で最も広く崇拝された嵐と雨の神。本来の名はハダド。ウガリットの『バアル叙事詩』で海の神ヤムを倒して宮殿を得、死の神モートに呑まれたのちによみがえる。
解説
概要
バアル(ウガリット語 𐎁𐎓𐎍 bʿl)は、レヴァントの北西セム世界で最も広く崇拝された嵐と雨の神である。「バアル」は「主」「持ち主」「夫」を意味する普通名詞で、もとは称号であったが、前2千年紀の地中海沿岸では嵐の神ハダドを指す事実上の神名となった。ウガリットでは人名に含まれる神の名として最も多く、町の守護神「ウガリットのバアル」として、またツァフォン山(現ジェベル・アクラ)に住む「ツァフォンのバアル」として祀られた。
添え名には「雲に乗る者」(rkb ʿrpt)、「力ある者バアル」(ʾalʾiyn bʿl)、「勇士」(dmrn)などがある。雨と雷と風をもたらし、大地の実りと王権を支える神であり、海の神や死の神と戦う若い王として語られる。
神話・物語
バアルの事績を語るのが、ウガリットの六枚の粘土板に記された『バアル叙事詩』(KTU 1.1〜1.6)である。
第一の戦いの相手は海の神ヤムである。エールに王権を認められたヤムは、神々の会議に使者を送ってバアルの引き渡しを求める。怒って使者に打ちかかろうとするバアルを、アナトとアスタルトが押さえる。のちに工匠コシャル・ハシスが二本の棍棒を作ってバアルに与え、バアルはヤムを打ち倒して「ヤムは死んだ。バアルこそ王」と宣言する。
続いて宮殿の造営が語られる。館をもたないバアルのために、アナトはエールを脅し、バアル自身は贈り物を携えて母神アーシラトに取りなしを頼む。エールの許しを得て、コシャル・ハシスがレバノン杉と金銀で宮殿を建てる。バアルははじめ窓を設けることを拒むが、のちに窓を開けさせ、そこから雷鳴を轟かせる。
最後の相手は死の神モートである。王となったバアルはモートに使者を送るが、モートは人の肉を求めてバアルを呑み込もうと迫り、バアルは「わたしはあなたの僕」と答えて冥界へ下る。太陽の女神シャプシュの助言で、バアルは牝牛とのあいだに身代わりの子をもうけ、雲と風と雨、娘たちを連れて地下へ下る。バアルの死を知ったエールは玉座を降りて塵をかぶり、アナトはシャプシュとともに亡骸をツァフォン山に葬る。空いた玉座にはアタルが座ろうとするが、体が足りずに降りる。アナトはモートを捕らえて刃で断ち、箕でふるい、火で焼き、臼で挽いて野に撒く。やがてエールの夢に、天が油を降らせ、谷が蜜を流すさまが現れ、バアルが生きていることが知られる。七年ののちによみがえったモートとバアルは再び組み合うが、シャプシュがモートを諭して争いは終わる。

雨季と乾季のめぐりを映した物語と解されることが多いが、季節の周期ではなく、雨が降らない例外的な旱魃の年を語るものとみる研究者もいる。
図像と象徴
本サイトが掲げるのは、ウガリットのバアル神殿の近くで見つかった「雷を持つバアル」の石碑(前15〜13世紀、ルーヴル美術館蔵 AO 15775)である。角のある尖った冠をかぶり、短い腰布をつけて大股に進む。振り上げた右手に棍棒を握り、左手には先が若枝のように分かれた槍、すなわち稲妻を立てる。足もとの波打つ線は山あるいは海を表すとみられ、前に小さく王の姿が刻まれている。
腕を振り上げて打ちかかる「打ち下ろす神」の型は、レヴァント各地から出た青銅の小像にも多く見られ、銘がない場合にはバアルあるいはレシェフと推定されることが多い。牡牛もバアルの力を表す動物とされた。

系譜と関係
ウガリットの文書は、バアルを「ダガンの子」(bn dgn)と呼ぶ(ダガン)。一方でエールを「父」と呼ぶ箇所もあり、二重の父系の解釈は分かれている。アナトとは兄妹と呼ばれ、両者を夫婦とみる見方はかつて広く行われたが、ウガリットの文書に明確な根拠はない。アスタルトとの結びつきは「バアルの名」という称に表れている。娘としてピドライ、タライ、アルツァイが知られる。
本来の名ハダドはメソポタミアの嵐の神アダドと同じ神にさかのぼり、フルリのテシュブとも対応づけられた。エジプトでは新王国時代に受け入れられ、セトと同一視された。ヘレニズム期にはツァフォンのバアルがゼウス・カシオスとしてゼウスに重ねられた。フェニキアの諸都市にはそれぞれのバアルがあり、前7世紀にアッシリアのエサルハドンがテュロスの王と結んだ条約には、バアル・シャメム、バアル・マラゲ、バアル・ツァフォンの名が並ぶ。嵐を司る神格の横断的な比較は嵐・風の神が受け持つ。
文化的足跡
ヘブライ語聖書には「バアル」の語が約90回現れ、イスラエルの信仰の最大の競争相手として描かれる。カルメル山で預言者エリヤがバアルの預言者たちと対決する場面(『列王記上』18章)は、アハブ王の妻イゼベルがフェニキアから持ち込んだ祭祀をめぐる物語である。エクロンの神「バアル・ゼブブ」(『列王記下』1章)は、のちに悪霊の頭ベルゼブブの名となった。こうして「バアル」は偽りの神の代名詞となり、中世の悪魔学ではバエルの名で悪魔に数えられたが、いずれも外部からの再解釈である(悪魔化)。カナンの人々にとってのバアルは、雨をもたらし命を養う英雄的な王であった。1928年に始まるウガリットの発見は、そうしたカナンの側からのバアル像を原典で読むことを可能にした。
領分・別名
親・配偶者・子までを表示(全体はフル系図ページへ)。実線=主要伝承/点線=異伝・別系統。