ペルーン
ペルン
スラヴ神話の雷神。キエフ・ルーシでは公と従士団の神として祭祀の頂点に置かれ、ビザンツとの条約の誓いに名が残る。物語は伝わらず、蛇の敵を追う雷神という筋は20世紀の研究者の復元である。
解説
概要
ペルーン(Перунъ / Perun)は、スラヴ神話の雷神である。キエフ・ルーシでは公と従士団の神として国の祭祀の頂点に置かれ、東スラヴの神々のうちで最も多く記録に名を残した。名はスラヴ祖語で「打つ」を意味する語根に、行為者を表す接尾辞がついた形と解され、ポーランド語で稲妻を指す piorun にその名残がある。
雷神であり軍神でもあったことは史料から確かめられる。ただし、ペルーンをめぐる物語は一篇も伝わらない。天の雷神が地の底の敵を追うという筋書きは、20世紀の研究者が比較によって組み立てた復元である。
神話・物語
最も古い証言は6世紀のビザンツの歴史家プロコピオスである。『戦史』は、ドナウ流域のスラヴ人が稲妻を造る一柱の神を万物の主と認め、牛などを犠牲に捧げると記す。名は挙がらないが、多くの研究者はこれをペルーンと見ている。
名が現れるのは『原初年代記』である。ビザンツとの条約で、ルーシの異教徒は武具にかけ、ペルーンに誓った。907年(オレグ)と971年(スヴャトスラフ)の条約ではペルーンと家畜の神ヴォーロスが並んで呼ばれ、944年(イーゴリ)の条約では、キエフの丘に立つペルーンの像の前に従士たちが盾と剣と黄金を置いて誓ったという。もっとも907年の条約は、のちの条約をもとに年代記作者が組み立てたとする見方(シャフマトフ)もある。

980年、ウラジーミル1世はキエフの丘に六柱の像を並べ、その筆頭に木のペルーンを据えた。頭は銀、口髭は金であったと年代記は書く。8年後、受洗した大公はこの像を馬の尾に結ばせ、十二人の男に棒で打たせながら丘から引き下ろし、ドニエプル川へ流させた。ノヴゴロドでも像がヴォルホフ川に投じられたと後代の年代記は伝えるが、キエフの記事をなぞったものと見られ、史実としての裏づけは弱い。ノヴゴロド近郊のペルィニをペルーンの聖所とする結びつきも、17世紀の年代記に加えられた一文に基づいている。

物語としてのペルーンは、イヴァノフとトポロフの「基本神話」に負う。二人はスラヴ各地の民間伝承、呪文、地名を突き合わせ、樫の上に座す雷神が、地の底から這い出て家畜や水を奪う蛇の姿の敵を追い、敵が木や石や獣に身を隠すたびに稲妻で撃つ、という筋を再構成した。クロアチアのイストリア半島で、ペルーンと呼ばれる峰の麓にヴォロスコという村があることも論拠に挙げられた。カティチッチとベライはこれを春の祭に結びつけて広げ、ヤリーロやモレーナをその子に置いた。いずれも比較による復元であり、原典が語った物語ではない。
図像と象徴
中世の神像は残らない。具体的な描写は、年代記の「銀の頭と金の口髭」だけである。斧や槌、樫を雷神の徴とする理解は、東欧の民間で「雷の矢」と呼ばれて護符にされた先史時代の石斧、雷に打たれた木を特別視する習俗、そしてバルトやゲルマンの雷神との比較から導かれたものである。本ページに掲げたのは1998年に描かれた現代の絵画であり、古い図像ではない。
系譜と関係
原典は親も配偶者も子も語らない。語られる家族はすべて復元の産物で、地の女神モコシを妻とする再構成、ヤリーロとモレーナを子とするカティチッチとベライの説、リューゲン島のポレヌトの名を「ペルーンの子」と読む説がある。西スラヴでは、オボドリートのプローヴェ、リューゲン島のスヴェントヴィト、ポラーブのヤロヴィトを、ペルーンの地方的な現れと見る研究者がいる。
比較の上では、バルトのペルクナスと名も職能も近く、ともに印欧祖語の雷神にさかのぼるとする説が有力だが、語形の対応には異論も残る。ゲルマンのトールやインドのインドラとは働きが似ているのであって、同じ神ではない。キリスト教化ののち、雷と戦車の性格は預言者エリヤ(聖イリヤ)に引き継がれた。
文化的足跡
名は普通名詞と地名に残った。ポーランド語の piorun、南スラヴ諸語でアヤメを指すペルニカ、クロアチアなどに残るペルンの名の山がその例である。19世紀のスラヴ諸民族の民族運動と、現代のスラヴ新異教主義(ロドノヴェーリエ)は、ペルーンを主神として掲げ直した。今日ではスラヴを代表する雷神として、小説やゲームにも名が見える。
領分・別名
親・配偶者・子までを表示(全体はフル系図ページへ)。実線=主要伝承/点線=異伝・別系統。