テュール
チュール · ティール · テュル
北欧神話の軍神。狼フェンリルを縛るために自ら右手を差し出し、噛みちぎられた隻腕の神。名は印欧祖語の「神」に遡り、かつては最高神だったとする説がある。
解説
概要
テュール(Týr)は、北欧神話の軍神。アース神族に属し、狼フェンリルを縛る際に自ら右手を差し出して噛みちぎられた、隻腕の神として知られる。
名は古ノルド語で「神」を意味する普通名詞でもある。複数形ティーヴァル(tívar)は「神々」を指し、詩ではオーディンがシグテュール(勝利のテュール)、ハンガテュール(絞首のテュール)、トールがレイザルテュール(車のテュール)と呼ばれる。固有名と普通名詞が同じ形をとるため、詩のなかの「テュール」がこの神を指すのかどうか判別できない箇所が生じる。
語源はゲルマン祖語 *Tīwaz。印欧祖語 *deywós「天上の・神」に遡り、これはさらに *dyēus「昼の空」から派生した語である。ラテン語 deus、サンスクリット devá、リトアニア語 dievas が同じ形からの語であり、ゼウス・ユーピテル・ヴェーダのディヤウスは同じ語根の別形にあたる。この語源から、テュールはもともとゲルマン人の天空神・最高神であって、のちにオーディンにその座を奪われたとする説が19世紀以来くり返し唱えられてきた。ただし *tīwaz が「神」という一般語である以上、それは本来の名ではなく称号が固定したものだという反論があり、天空神説の根拠はその分だけ弱い。ジョルジュ・デュメジルは、魔術的な主権者オーディンに対する法的な主権者としてこの神を位置づけた。
神話・物語
残された物語は少ない。『古エッダ』でまとまった役を与えられるのは『ヒュミルの歌』だけで、そこではテュールは巨人ヒュミルの息子とされ、九百の頭を持つ祖母が登場する。トールとともに、神々の酒宴に要る大釜を父のもとへ取りに行く。ところが『詩語法』は、この神をオーディンの子とする。父が巨人か主神かで割れているのであり、どちらかに寄せて書くことはできない。
最も知られるのはフェンリルの縛めである。『ギュルヴィたぶらかし』第34章によれば、神々のもとで育てられた狼に餌をやる勇気があったのはテュールだけだった。二度の鉄の鎖を狼が引きちぎったのち、神々はドヴェルグに紐グレイプニルを鍛えさせる。疑ったフェンリルは、担保として誰かの手を口に入れることを条件とした。テュールが右手を入れ、紐が解かれないと知った狼はそれを噛み切る。噛み切られた場所を、以来「狼の関節」(úlfliðr=手首)と呼ぶ。
スノッリはこの神を「最も大胆で、最も気概があり、戦の勝敗を大きく左右する」と紹介し、抜きん出て怯まぬ者を「テュールのごとく勇敢(týhraustr)」、賢い者を「テュールのごとく賢い(týspakr)」と言うと記す。そして章を、「彼は隻腕であり、人と人を和解させる者とは呼ばれない」と結ぶ。誓約に関わる神が、誓いを破る作戦の担保として腕を失った——その皮肉を、スノッリは一行で置いている。和解を司るのは、彼ではなくバルドルの子フォルセティである。
『ロキの口論』でロキは、右手を失ったことを嘲って二人のあいだを取り持つことなどできまいと言い、さらにテュールの妻が自分の子を産んだと暴露する。妻の名は伝わらない。『シグルドリーヴァの言葉』では、勝利のルーンを剣の柄と鎬と刃に刻み、テュールの名を二度唱えよと歌われる。ラグナロクでは、スノッリによれば繋がれていた犬ガルムと相討ちになる。ただし『巫女の予言』はガルムの咆哮を語るだけで、対戦相手をテュールとは名指ししていない。
図像と象徴
造形上の徴は一つ、失われた右手である。狼の顎に噛まれる手、あるいは手首から先のない腕。持物も乗り物も伝わらない。神々のなかで、身体の欠損そのものが標識になっている例はほかにない。
移住期(5〜6世紀)の金製ブラクテアートに、獣に手を噛まれる人物を刻んだ一群がある。スウェーデンのトロルヘッタン出土のもの、デンマークのスクリュツトルプ出土のもの(DR IK166)、ハンブルクのものが知られ、テュールとフェンリルの場面と解されている。ヴァイキング期では、イングランド北部ソックバーンのホグバック墓石、2019年にデンマークのホルンスヘーレズで見つかった銀のボタンにも同じ主題が読み取られた。ただしこれらはいずれも銘のない図像であり、同定は解釈である。
ルーン文字のティワズ ᛏ——上向きの矢印のような字形——は、この神の名を持つ。ゴート文字では tyz、古英語では tī または tir と呼ばれた。ルーン文字の銘文では、単なる音価を超えた記号として現れることがある。8世紀のリーベ出土の頭蓋骨片に刻まれた ᛏᛁᚢᛦ をこの神名と読む説もある。
近世以降の図像は写本から始まる。17世紀のアイスランド語写本 AM 738 4to はこの神を単独の立像として描き、18世紀の SÁM 66 は狼に手を噛まれる場面を選んだ。19世紀にはローレンツ・フレーリク、20世紀初頭にはヨン・バウエルが同じ場面を描き、狼の口に腕を突き入れる隻腕の戦士という像が定着する。持物のない神の図像が、たった一つの逸話だけで成立してしまった例である。
系譜と関係
系譜は前述のとおり割れている(『ヒュミルの歌』の巨人ヒュミルの子/『詩語法』のオーディンの子)。妻は『ロキの口論』に言及があるのみで名を伝えない。大陸ゲルマンの女神キサ(Zisa)をその対と見る説もあるが、資料が乏しい。
ローマ側の資料は、この神をマールスの名で呼ぶ。タキトゥス『ゲルマーニア』が挙げるメルクリウス・ヘルクレス・マールスの三神は、インテルプレタティオ・ロマーナによってそれぞれオーディン・トール・テュールを指すと解されるのが通説である。より具体的な証拠がマルス・ティンクススで、ハドリアヌスの長城のハウスステッズ砦から出た3世紀の祭壇に、フリース人部隊が「ティンクススたるマールス」へ捧げた銘が残る。ティンクススはゲルマン人の民会ティングの神を意味し、この神が戦だけでなく法と誓約を担っていたことを示す。6世紀のヨルダネスは、ゴート人が「マールス」を祖先とみなし、捕虜を犠牲に捧げたと書いている。
逆方向の翻訳、すなわちインテルプレタティオ・ゲルマーニカによって、ラテン語の「マールスの日」(dies Martis)はゲルマン語の「ティーワズの日」となった。英語 Tuesday、古ノルド語 Týsdagr がこれである。ドイツ語 Dienstag は別系統で、ティングを意味する語形(Dingesdag)に遡り、やはりこの神と民会との結びつきを反映していると見られる。日本語の火曜日は、同じ dies Martis を惑星=火星の側から訳した系統であって、ゲルマン語を経由していない。
文化的足跡
この神の名を含む地名は、デンマークのティスルンド(テュールの森)に多く、ノルウェーのテュスネス(テュールの岬)はデンマークから持ち込まれた祭祀の跡と見られている。ユトランドのヴィービュにあるティーアセングは「テュールの草地」の意で、近くにオーディンの名を含む地名も残る。スウェーデンのティーヴェデンをこの神の森と読む説もあるが、語源は定まっていない。地名の分布は、物語の乏しさに比して、この神が広く祀られていたことを示唆する。
ティワズのルーン ᛏ は、20世紀のドイツで政治的な標章として流用され、その用法は今日も一部に残る。古い記号が近代の政治に取り込まれた例として、ルーン文字の受容史ではしばしば論点になる。
現代の創作では、片手を失った寡黙な戦神として登場することが多い。ただし原典のテュールは、勇敢さと引き換えに「和解者ではない」と評された神であって、寡黙さについては何も語られていない。
領分・別名
親・配偶者・子までを表示(全体はフル系図ページへ)。実線=主要伝承/点線=異伝・別系統。