テオニム THEONYM · 世界神話アーカイブ 神格を検索
MUNDUS MYTHICUS · CH. 03 · CREATION MYTHS COMPARED

世界のはじまり

世界の始まりを語る神話は、どの体系にもある。ただし語り方は一つではない。混沌から何かが分かれる話、水の底から土を引き上げる話、巨人の身体を切り分けて天地を作る話。型は数えられるほどしかない。では型が一致すれば、それは同じ話なのか。この章は、前章で立てた「似ている、とは何か」という問いを、創世神話で実際に試してみる。

PLATE 天の女神ヌトと大地の神ゲブ(グリーンフィールド・パピルス)
天の女神ヌトと大地の神ゲブ(グリーンフィールド・パピルス), 第21王朝(前10世紀頃).
グリーンフィールド・パピルスより天の女神ヌトと大地の神ゲブ(第21王朝、大英博物館蔵)/WIKIMEDIA COMMONS、パブリックドメイン

型は数えられる

創世神話の型は、驚くほど少ない。世界中の伝承を集めても、大きく分ければ六つほどに収まる。

第一に、混沌からの分離。何もない、あるいは何もかもが混ざった状態から、天と地が引き離される。ギリシアではカオスからガイアが生じ、エジプトでは天の女神ヌトと大地の神ゲブが抱き合っていたところを、大気の神シューが引き離す。第二に、原初の水。エジプトのヌン、メソポタミアのアプスーティアマト、シュメールのナンム。世界の前には水だけがあった、という語りである。第三に、宇宙卵。第四に、巨人の身体の解体。第五に、言葉による創造。第六に、水底からの土の引き上げ——動物が潜って泥をくわえてくる、北米や北アジアに広く分布する型である。

六つの型のどれか、あるいはいくつかの組み合わせで、ほとんどの創世神話は記述できる。ここまでは事実の整理であり、争いはない。問題はここから先である。

巨人の解体——同源と独立発生

巨人の身体を切り分けて世界を作る話は、北欧・インド・中国の三つの体系に、はっきりした形で残っている。

北欧のユミルは、オーディンら三兄弟に殺され、その肉から大地が、血から海が、骨から山が、頭蓋から天が作られた。『エッダ』の「グリームニルの言葉」と「ヴァフスルーズニルの言葉」がこれを歌い、スノッリの散文がまとめている。インドの原人プルシャは、『リグ・ヴェーダ』第十巻の讃歌のなかで神々によって供犠にかけられ、その口から祭官が、腕から王族が、腿から庶民が、足から隷民が生じたとされる。中国の盤古は、三世紀の『三五暦記』によれば鶏卵のような混沌のなかに生まれ、天地を押し広げて死に、六世紀の『述異記』ではその身体が山川草木に変じたと語られる。

三つは似ている。ではこれは同じ話が伝わったのか、それぞれの土地で別々に生まれたのか。

ユミルとプルシャについては、同源とみる説に根拠がある。北欧語とサンスクリット語は同じ印欧語族に属し、ユミルの名を「双子」を意味する語根に遡らせて、インドのヤマやイランのイマ(ジャムシード)と結びつける語源説がある。神話の型と言語の系統が重なるとき、同源の主張は検証にかけられる。一方、盤古については、印欧語の側とつなぐ手がかりがない。中国の文献に現れるのは三世紀と遅く、それ以前の中国には巨人解体型の創世神話が確認できない。仏教とともにインドの伝承が流入した可能性を疑う研究者もいるが、独立に生まれたとみる見方が今なお有力である。

つまり、同じ型に見える三つの話のうち、二つは系譜を論じる余地があり、一つはそれがない。型が一致することは、それだけでは何も証明しない。前章で立てた原則の、これが最初の適用である。

水から始まる——原初の海と国生み

ティアマトの話は、もう一つの型にもまたがっている。『エヌマ・エリシュ』において、マルドゥクは原初の海ティアマトを倒し、その身体を二つに裂いて天と地を作る。原初の水であり、同時に解体される巨人でもある。型は排他的な箱ではない。

日本の国生みは、これとは別の水の語りを持つ。イザナギイザナミが天の浮橋から矛を下ろし、海をかき回して引き上げると、滴り落ちた塩が固まって最初の島になる。倒すべき敵はいない。水は素材であって、混沌ではない。同じ「水から始まる」型でも、水を敵とみるか素材とみるかで、話の骨格がまったく変わる。中国の女媧の物語は、そもそも世界の創造ではなく、壊れた天の修復である。『淮南子』が語るのは、天を支える柱が折れて空に穴があいたとき、女媧が五色の石を練って天を補った、という話であり、世界はすでにそこにある。

創造神は何を兼ねるか

本サイトに登録された「創造神」の役割を持つ神格は七十柱ある。その内訳はヒンドゥー十三、メソポタミア十一、エジプト十で、この三体系だけで半分を占める。そして創造神が他に何の役割を兼ねているかを見ると、天空が十一、豊穣が十、嵐が八、戦が七、太陽が七である。

これは、創造神が「創造だけをする神」ではないことを示している。世界を作った神は、その後も天を支配し、雨を降らせ、戦に勝つ。エジプトのアトゥムは創造神であり太陽神であり、メソポタミアのマルドゥクは創造神であり嵐の神であり戦の神である。創造は職能の一つであって、神の全体ではない。

逆に、創造神を一柱も持たない体系がある。仏教である。本サイトの仏教の項目は百四十を超えるが、創造の役割を持つものは一つもない。これは欠落ではない。仏典は、世界に始まりがあるかという問いに対して、答えることを退けた。毒矢が刺さった者が、矢を抜く前に射手の素性を問うようなものだ、という譬えが残っている。世界の始まりを語らないことが、この体系の選択だった。

「無からの創造」は少数派である

最後に一つ、逆の方向から確かめておく。何もないところから神が世界を作る、という語り方は、実は珍しい。ここに挙げた型のほとんどは、水か混沌か巨人か、なにかが先にある。神は素材を切り分け、押し広げ、引き上げる者であって、無から有を呼び出す者ではない。

無からの創造という観念は、一神教の伝承において、しかも聖書本文ではなく後代の神学において明確になった。それが今日、創世神話の「標準形」のように感じられるとすれば、それは特定の伝統が長く読まれ続けた結果であって、世界の神話の平均像ではない。ここでも、前章の防波堤が効いている。何が標準に見えるかは、何が長く読まれたかで決まる。