トール
ソー · トル · ドナル
北欧神話の雷神。槌ミョルニルを振るって巨人から世界を守る。神話ではオーディンに次ぐ位置に置かれるが、実際に最も広く祀られたのはこの神であり、詩人の神ではなく農民の神であった。
解説
概要
トール(Þórr / Thor)は、北欧神話の雷神である。アース神族に属し、槌ミョルニルを振るって巨人ヨトゥンから神々と人間の世界を守る。物語ではオーディンの子として父に次ぐ位置に置かれるが、実際に最も広く祀られたのはこの神であった。人名と地名の分布、そして護符の出土量が、そう示している。
名はゲルマン祖語の *Þun(a)raz「雷」に遡る。古英語の Þunor、古サクソン語の Thunar、古高ドイツ語の Donar は同じ語であり、トールは北欧に固有の神ではなく、ゲルマン語圏に広く分布した雷神の北の枝にあたる。祖形の再建は *Þunraz、*Þunaraz、*Þunuraz のあいだで割れているが、印欧祖語で雷鳴を表す語根 *(s)tenh₂- に遡る点では一致する。ユーピテルに付されたラテン語の添え名トナンス(雷鳴を轟かす者)も、同じ語根から出ている。
神話・物語
物語を伝える資料は、そのほとんどがキリスト教化ののちアイスランドで書かれた。13世紀の『古エッダ』の歌謡群、同じ頃スノッリ・ストゥルルソンが編んだ『スノッリのエッダ』、そして異教期に遡るスカルド詩である。
もっとも古くから絵に描かれたのは、ヨルムンガンド釣りの場面である。巨人ヒュミルの舟に乗ったトールは、牛の首を餌にヨルムンガンドを海底から引き上げる。槌を振り上げたところで、恐れたヒュミルが糸を切った——ここまでは共通するが、結末は割れている。『ヒュミルの歌』ではトールが蛇を打ち据え、スノッリでは蛇が海へ沈むにとどまる。
『スリュムの歌』では、槌を盗んだ巨人スリュムが返却の条件に女神フレイヤを求める。トールは花嫁衣裳をまとって婚礼の席に着き、牛一頭と蜜酒三樽を平らげて怪しまれるが、ロキが取り繕う。祝福のために槌が花嫁の膝へ置かれた瞬間、それを掴んで一座を皆殺しにした。スノッリが語る巨人ウートガルザ・ロキの館では、飲み干せぬ角杯が海、持ち上がらぬ猫がヨルムンガンド、勝てぬ老婆エリが老いであったと明かされる。この神は力に訴え、そして欺かれる。
ラグナロクでは、トールはついにヨルムンガンドを斃す。だが浴びた毒に、九歩を歩いて倒れる。なお12世紀デンマークのサクソ・グラマティクスは、この神を人間の英雄に打ち破られる悪役として描いた。神話の姿は、書き手の立場によってここまで変わる。
図像と象徴
槌ミョルニル、力を倍にする帯メギンギョルズ、鉄の手袋ヤールングレイプルが三つの持物である。二頭の山羊タンングリスニルとタンングニョーストが引く車に乗り、その轟きが雷鳴とされた。山羊は食べられても翌朝には蘇る。赤い髭、燃える目、額に刺さったままの砥石——巨人フルングニルとの決闘の名残——が加わる。
しかし造形資料の重みは、写本よりむしろ考古遺物にある。槌を象った護符が、北欧・イングランド・北ドイツ・バルト海沿岸・ロシアから千点ほど出土している。多くは鉄や銀の簡素なもので、装飾を凝らしたものは百点ほどにすぎない。ルーン石碑に刻まれた槌の意匠は、中央に十字を据えたキリスト教の石碑への異教側の応答と考えられている。石碑には「トールがこのルーンを聖別せんことを」という呼びかけも四例知られる。デンマークのホーアドゥム石、スウェーデンのアルトゥナ石、イングランドのゴスフォース十字架は、いずれも釣りの場面を刻む。写本より数百年古い証言である。
今日思い浮かべられる勇壮なトール像は、19世紀の産物である。ヨハネス・ゲールツらロマン主義期の画家が与えた造形が、その後の受容の土台になった。
系譜と関係
父はオーディン、母は大地を意味するヨルズ(フィヨルギュン)。妻は黄金の髪をもつシヴ、恋人は巨人の娘ヤールンサクサ。シヴとの間にスルーズ、ヤールンサクサとの間にマグニ、母の名の伝わらないモージがいる。ウルは継子にあたる。従者はシャールヴィとレスクヴァ、住まいはスルーズヴァンガルのビルスキルニル。
11世紀のアダム・フォン・ブレーメンは、ウプサラの神殿でトール像が三座の中央を占め、最も強大な神とされていたと記した。この神が天を支配し、雷と稲妻、風と嵐、晴天と実りを司ると彼らは考える、というのである。疫病と飢饉のときに犠牲が捧げられたとも伝える。詩人と王の神オーディンに対し、トールは天候を通じて農民の生活を握る神であった。
ローマの週日名がゲルマン語へ移されたとき、ユーピテルの日はインテルプレタティオ・ゲルマーニカによってトールの日となった。英語 Thursday、日本語の木曜日はここに由来する。つまりゲルマン人はこの神をユーピテルに重ねたのであり、ゼウスにではない。一方タキトゥスは『ゲルマーニア』でスエビ族の神々を「メルクリウス」「ヘルクレス」「マールス」と呼んだ。インテルプレタティオ・ロマーナによるこの呼び替えのうち、ヘルクレスがトールを指すと見るのが通説で、棍棒と槌の類似がその理由と考えられている。
インドラ、ペルーン、ペルクナス、タラニスといった印欧語族の雷神との類似はしばしば指摘され、インドラのヴァジュラとミョルニル、ヴリトラ退治とヨルムンガンド退治の対応はマックス・ミュラー以来の論点である。ただしこれは類型の一致であって、同一の神とされた例ではない。印欧祖語の雷神 *Perkʷunos に由来する語形がゲルマン語に残っているのも、トールの名ではなく母フィヨルギュンの名のほうである。
文化的足跡
トールに由来する人名がヴァイキング期に急増するのに対し、それ以前の例は知られていない。護符の流行と同じく、キリスト教化への抵抗の表明だった可能性が高い。ソルステイン(Þórsteinn)はトルステン、さらにダスティンへと形を変えて今日まで残る。地名ではデンマークのソルスルンド(トールの森)、南ノルウェーのソルスホーヴ(トールの社)が知られ、アイルランドのコイル・トヴァルもノルド人入植地の同種の名である。
12世紀のノルウェーでは、公式にはキリスト教化されて一世紀を経てなお、人々がトールを呼んでいた形跡がある。近代に入ると、ワーグナー『ラインの黄金』のドンナーのように、この神は国民的過去の象徴として引き直された。現代のアメリカン・コミックとその映画化を通じて名を知る読者も多いだろうが、そこで造形されたトールは、農民が天候を託した神とは別のものである。
領分・別名
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モーテン・エスキル・ヴィンゲ《巨人と戦うトール》(1872年、スウェーデン国立美術館蔵)/GOOGLE ARTS & CULTURE、パブリックドメイン
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