ヤム
ヤム=ナハル · ヤンム · ヤーム
ウガリット神話で海と河を神格化した神。エールから王権を与えられたが、バアルに棍棒で打ち倒された。混沌の水を体現する存在である。
解説
概要
ヤム(𐎊𐎎 ym / Yam)は、ウガリットの神話において海を神格化した神である。名はそのまま「海」を意味する。「王子ヤム」「裁き手ナハル」と対で呼ばれ、ナハルは「河」を指す。ヤム=ナハルという合成の呼び名も用いられる。この神は海を支配する神というより、海そのものである。
神話・物語
『バアル叙事詩』の第一の敵がヤムである。至高神エールは神々を集め、子らのなかから次の支配者を選ぼうとした。ヤムの使者は、万物の源は水であるから海と河を統べるヤムこそ王にふさわしいと主張する。エールはこれを容れてヤムに王権を与え、宮殿を建てさせた。名を与えて「エールの愛し子」と呼ぶ箇所もある。
これに憤ったバアルは、工芸神コシャル・ハシスに二本の棍棒を作らせた。「撃退(アイヤムル)」と「追放(ヤグルシュ)」である。胴への一撃をヤムは耐えたが、頭への一撃には耐えられず倒れ、バアルがその身を裂いてとどめを刺した。バアルはこののち王権を得るが、宮殿を建てる際にはヤムの侵入を恐れて窓を設けようとせず、落成の宴の最中にも復活を案じて浜辺へ下りたと語られる。倒された後もなお怖れられる敵である。
この神話の書板には欠損が多く、筋の復元にはエジプト語の『アスタルテ・パピルス』(前1550〜前1200年頃)を参照することがある。そこではヤムが神々に貢納を要求し、取りなしに立った女神アスタルトの身柄まで求める。ウガリットの物語と重なる部分と食い違う部分があり、扱いには慎重を要する。
ウガリットは海に臨む交易都市であり、夏の日照りののちに来る初冬の雨と、荒れる海とに生活を左右された。奉納物の一覧表からは、海すなわちヤムそのものにも祭儀が行われていたことが分かる。バアルがヤムを倒す物語は、季節の循環の反映であると同時に、海への祭儀が衰えてバアルの祭儀が興隆した過程を映すとも解されている。
図像と象徴
ヤムを描いたと確実に言える図像は知られておらず、本項も主画像を掲げない。文書はこの神を竜、あるいは蛇と結びつけて語る。バアルとアナトが倒したとされる「逃げる蛇レビヤタン」「原初の蛇ロタン」「七つ頭の暴れもの」がヤムその人なのか、その従者なのかは、粘土板の欠損もあって明らかでない。ロタン(ltn)の名がヘブライ語のレヴィアタンと同源であることは確かで、旧約聖書で神が海の竜を打つ主題との関係が論じられてきた。
系譜と関係
エールとアーシラトの子であり、名を挙げて子とされる数少ない神格のひとりである。同じく兄弟にあたる死の神モートとともに、バアルの敵として立つ。母アーシラトがヤムの側に立つ場面もある。
海の神格を秩序の神が打ち倒すという構図は、マルドゥクとティアマトの戦いをはじめ、古代西アジアに広く見られる。ただし機能の類似は起源の同一を意味しない。混沌の水との闘いという主題の横断的な比較は、水神・海神の頁が受け持つ。
文化的足跡
ヘブライ語聖書には、神が「海(ヤム)」を叱り、竜を砕くと歌う詩句が繰り返し現れる。これらをウガリットの神話の残響と読むか、同じ主題が別々に用いられただけと読むかは、比較研究の主要な論点である。ウガリット文書の解読は、この問いに原典を与えた点で決定的であった。