セラピス胸像(ローマ期、バチカン美術館キアラモンティ蔵)/撮影 JASTROW、パブリックドメイン
呼んだのは誰か
カエサルは『ガリア戦記』第六巻に、ガリア人がもっとも崇める神はメルクリウスである、と書いた。タキトゥスは『ゲルマーニア』で、ゲルマン人が最も崇めるのもメルクリウスだと記した。二人ともローマ人であり、見ているのは他人の神である。
これは無知ではない。ローマ人は、他民族の神を自分たちの神の名で呼ぶことを、一つの方法として持っていた。後世これを interpretatio romana と呼ぶ。ガリアのルグスは道と交易の神であり、そこがメルクリウスに似ていた。ゲルマンのオーディンは死者と知恵の神であり、そこがメルクリウスに似ていた。似た職能を見つけ、自分たちの名を当てる。それはローマ人のための翻訳であって、ガリア人がルグスをメルクリウスだと思ったわけではない。
ギリシア人も同じことをした。ヘロドトスは『歴史』第二巻で、エジプトのアメンを「テーバイのゼウス」、オシリスを「ディオニューソス」と呼んでいる。これが interpretatio graeca である。
本サイトの等価関係に、ギリシアとローマのあいだで四十二組、エジプトとギリシアのあいだで二十七組、ケルトとローマのあいだで十四組が登録されているのは、この翻訳の規模をそのまま映している。そしてそれらはすべて identified——歴史的に同一視された——という種類に分類されている。同一視した主体が誰であったかを、各項目の出典欄が記録している。
融合して新しい神になる
同一視の先に、融合がある。
セラピスは、前三世紀にプトレマイオス朝のエジプトで作られた神である。オシリスと聖牛アピスの合成であるオシラピスに、ギリシアのゼウスやハーデースの姿を重ねた。神像はギリシア風の髭の男で、頭に穀物の升を載せる。ギリシア系の支配者とエジプト系の民衆の双方が拝める神を、王朝が意図して設計した——タキトゥスとプルタルコスが、その経緯を伝えている。
セラピスは、どちらの民の神でもなかった。それゆえに両方の神になれた。同一視が「Aは実はBである」という主張だとすれば、融合は「AでもBでもないCを作る」という操作である。
取り込まれる
第三の型は、一方が他方を自分の体系のなかへ迎え入れる場合である。
仏教は、インドの神々を否定しなかった。インドラは帝釈天となって仏法を守り、サラスヴァティーは弁才天となり、マハーカーラは大黒天となった。神々は消えず、位置を変えた。世界の主から、教えの守護者へ。本サイトの仏教とヒンドゥーのあいだに十二組の等価関係があるのは、この移動の記録である。
日本ではさらにもう一段の操作が加わった。本地垂迹——日本の神々は、仏や菩薩が人々を導くために仮に現れた姿である、という説である。八幡神は八幡大菩薩となり、天照大神は大日如来の垂迹とされた。仏が本地(本来の姿)であり、神が垂迹(仮の姿)である。この序列は、明治の神仏分離まで千年近く続いた。
取り込みは、取り込む側の秩序のなかに相手を置く。同一視と違って、対等ではない。だが消しもしない。神々が生き延びる方法として、これはもっとも成功した型の一つである。
反転する——悪魔化
第四の型は、取り込みの反転である。相手の神を、自分の体系のなかの悪魔にする。
バアルは、カナンで雨をもたらす王であった。ヘブライ語聖書は、その尊称バアル・ゼブル(気高き主)を、語呂の似たバアル・ゼブブ(蝿の主)に置き換えて記した。ベルゼブブの誕生である。女神アシュトレト(アスタルテ)は、近世の悪魔学で大公爵アスタロトになった。習合が神と神を重ねる働きだとすれば、悪魔化はその反転である。だがどちらも、二つの宗教が接触したときに起きることであり、接触の記録である点では変わらない。
本サイトが一神教の伝承において唯一神と預言者を扱わず、天使と悪魔だけを扱うのは、この接触の痕跡がそこに残っているからである。悪魔の名を遡ると、隣人の神の名に行き着く。
等価関係を二種に絞る理由
ここまで四つの型を見てきた。同一視、融合、取り込み、悪魔化。これらはすべて、当事者が行った歴史的な操作である。ローマ人が呼び、プトレマイオス朝が設計し、仏教が迎え、聖書が貶めた。本サイトの等価関係のうち二百四十八組を占める identified は、こうした操作の記録である。
もう一つの種類 cognate は、当事者の操作ではなく、言語の系譜である。ゼウスとユーピテルは、互いを同一視する以前に、同じ祖語の一語から分かれていた。これは歴史の接触ではなく、接触の前にあった血縁である。四十四組ある。
そして、本サイトが登録しないものが一つある。「機能が似ている」という関係である。ゼウスとトールは、どちらも雷神だが、同一視されたことも、名が同源であることもない。第2章で述べたとおり、機能の類似はそれ自体では何も証明しない。似た職能を持つ神々は役割ページで横に並べて読めるようにしてあり、そこで差異を読むことが本サイトの方法である。
等価関係の表示を各記事で見たとき、それが identified であれば「誰かが歴史のなかでそう呼んだ」、cognate であれば「名が親戚である」と読んでほしい。どちらも事実であり、どちらも「同じ神である」という意味ではない。同じ神である、と本サイトが断定することは、ない。
出会いの記録として
神々が出会うとき、起きることは四つのどれかである。翻訳される。合成される。迎え入れられる。貶められる。いずれも、一方の秩序が他方をどう位置づけたかの記録であり、両方の秩序が対等に融け合った例は、ほとんどない。
だからこそ、等価関係の出典欄には「誰が」を書いてある。ローマ人が呼んだのか、ギリシア人が呼んだのか、プトレマイオス朝が設計したのか。同一視は常に、視点の側にある。本サイトがメルクリウスとヘルメースを別の記事として立て、ルグスをメルクリウスの項目に吸収しないのは、視点の側に立たないためである。神々が出会った記録を読むことは、出会わせた人間の側を読むことでもある。