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MUNDUS MYTHICUS · CH. 16 · HEROES AND MONSTERS

英雄と怪物

英雄は怪物を倒す。この筋書きは、どの体系を開いても見つかる。ではなぜ似るのか——という問いは、二十世紀に何度も答えられてきた。だがこの章では、答えを疑うところから始める。そして怪物の側に立って読み直したとき、本サイトの数字が示す一つの偏りが、まったく別のことを語り始める。

PLATE カエレ式ヒュドリア ヘラクレスとヒュドラ
カエレ式ヒュドリア ヘラクレスとヒュドラ, 鷲の画家, 前525年頃.
鷲の画家によるカエレ式ヒュドリア(前525年頃)/THE J. PAUL GETTY MUSEUM, CC0

英雄の一生には型がある

異常な出生。捨てられるか、隠されて育つ。成人して力を示す。怪物を倒す。冥界へ下って戻る。そして非業の死。

ヘーラクレースはゼウスが人間の女に産ませた子で、揺籃で蛇を絞め殺し、十二の難業をこなし、冥界からケルベロスを連れ帰り、毒の衣に焼かれて死ぬ。ギルガメシュは三分の二が神で、森の番人フンババと天の牛を倒し、友の死に打ちのめされて不死を求める旅に出て、手に入れた薬草を蛇に奪われて帰る。クー・フーリンは七歳で番犬を殺し、戦場で歪み変じて敵を薙ぎ倒し、最後は立ったまま死ぬために自分を石柱に縛りつける。スサノオは高天原を追われ、出雲で八岐大蛇を斬る。ラーマは王位を追われて森に入り、妻を奪った魔王を討つ。

似ている。この類似を一つの図式にまとめようとする試みは、二十世紀初頭から続いている。オットー・ランクは1909年に英雄誕生の共通型を提示し、ラグラン卿は1936年に英雄の一生を二十二の項目に分解して各英雄に点数をつけた。そしてジョゼフ・キャンベルが1949年に、あらゆる英雄譚は「出立・試練・帰還」という一つの旅の変奏である、と説いた。単一神話と呼ばれるこの図式は、映画の脚本術を通じて、今日もっとも広く知られた神話の読み方になっている。

図式は何を見ていないか

だが、この図式には方法上の問題がある。型に合う例を選べば、型は必ず現れる。

ラグランの二十二項目に照らして高得点になるのは、オイディプース、テーセウス、ロムルス、ペルセウス——つまり、ラグランが型を作るときに見ていた英雄たちである。逆に型から外れる英雄は、外れるがゆえに数えられない。日本のヤマトタケルは、怪物ではなく熊襲と蝦夷を討ち、最後は白鳥になって飛び去る。冥界下りはない。北欧のシグルズは竜を倒すが、その後の物語は裏切りと復讐であって帰還ではない。女性の英雄はどうか。図式は男性の英雄の一生をもとに組まれており、アタランテースカアハを入れると項目の半分が空欄になる。

図式は反証できない。合う例が図式を支持し、合わない例は「変則」として脇に置かれる。それは神話の読み方としては使えても、神話がなぜ似るのかの説明にはならない。本サイトは、第2章で述べた理由により、この図式を説明原理としては採らない。

怪物の側から読む

視点を変えてみる。英雄ではなく、怪物の側に立つ。すると怪物には、英雄とは別の分類が見えてくる。

第一に、境界を守る者。ケルベロスは冥界の門を守り、ラードーンは黄金の林檎の園を守る。フンババは杉の森の番人であり、ギルガメシュがそれを殺したのは、森を伐り出すためだった。これらの怪物は悪ではない。持ち場にいただけである。倒されるのは、英雄がその向こうへ行きたかったからにすぎない。

第二に、混沌の残余。ティアマトレヴィアタンヴリトラアポピス。世界が秩序づけられる前に存在したものの、生き残りである。倒されることで世界が完成する。第3章で見た創世神話の裏面がここにあり、怪物退治はしばしば創世のやり直しとして語られる。

第三に、罰として送られる者。カリュドーンの猪はアルテミスが、天の牛はイシュタルの求めでアヌが送った。怪物は神の道具であり、退治の物語は神と人の関係の物語である。

そして第四に——倒されない怪物がいる。フェンリルヨルムンガンドは、ラグナロクまで縛られ、あるいは海に沈められているだけである。彼らは最後に勝つ側にいる。北欧の英雄譚は、怪物が退治されて終わらない。

数字が示す偏り

本サイトの登録数を体系ごとに見ると、神と怪物の比率が極端に割れている。

スラヴでは登録された存在の五十五パーセントが怪物である。北欧は四十五、日本は四十四、中国は四十一。これに対しギリシアは十三、ヒンドゥーは十一、ケルトは十。そしてローマは一パーセント、エトルリア・フェニキア・マヤは零である。

この数字は二つのことを同時に語っている。一つは記録の事情であり、もう一つは編集の事情である。

スラヴの神々については、体系だった記録がほとんどない。『原初年代記』が伝えるのは、980年にキエフ公ウラジーミルが丘に立てた六柱の像の名だけであり、六世紀のプロコピオスや十二世紀のヘルモルトの断片的な証言を足しても、神々の物語は組み立てられない。一方、ルサールカドモヴォーイレーシーバーバ・ヤーガは、十九世紀の民俗学者が農村で採集するまで、生きた伝承として語り継がれていた。神々はキリスト教化とともに記録される前に消え、怪物は民間の語りのなかで生き延びた。スラヴの五十五パーセントは、この歴史を数字にしたものである。北欧と日本の高い比率も、部分的には同じ理由による。

ローマの一パーセントは、別の事情による。ローマ人はギリシアの怪物をそのまま受け入れたため、本サイトはそれらをギリシアの項目として分類している。ローマに怪物がいなかったのではなく、ローマ固有の怪物として記事化されたものが少ないのである。エトルリアの零も、墓室壁画に残る冥界の魔物たちを、本サイトが神格として登録しているためである。

つまりこの数字の半分は、伝承の性質を映しており、もう半分は本サイトの編集判断を映している。どちらがどちらかを切り分けずに「スラヴは怪物の神話だ」と言えば、それは第1章で警告した誤りをそのまま犯すことになる。

英雄と怪物は入れ替わる

最後に、境界がしばしば消えることを確かめておく。ヘーラクレースは狂気に落ちて自分の子を殺す。クー・フーリンは戦場で歪み変じ、味方が見分けられなくなる。スサノオは高天原で田を荒らし、機屋に馬の皮を投げ込んで女を死なせた。彼らは怪物を倒す前に、あるいは倒した後に、怪物になっている。

ギルガメシュの友エンキドゥは、もともと獣とともに育った野人であり、都市の側から見れば怪物だった。彼が人間になり、英雄の友になり、そして死ぬ。物語のなかで、怪物と英雄と人間の三つの位置は固定されていない。

英雄が怪物を倒す、という筋書きが世界中にあるのは事実である。だがその筋書きを開いてみると、誰が英雄で誰が怪物かは、語り手がどちらの側に立ったかで決まっている。図式は、その視点の選択を消してしまう。本サイトが各記事で怪物の側の事情を書くのは、消えたものを戻すためである。