八幡神
やはたのかみ · はちまんしん · 八幡大菩薩
宇佐に発し、日本で最も広く祀られる神。応神天皇の神霊とされ、八幡大菩薩として仏教に迎えられ、清和源氏の氏神から武家全体の守護神となった。
解説
概要
八幡神(やはたのかみ/はちまんしん)は、豊前国宇佐に発し、日本全国にもっとも広く勧請された神である。現在の神道では第十五代応神天皇(誉田別命)の神霊とされ、母である神功皇后および比売神とあわせて八幡三神として祀られる。早くから仏教と結びついて八幡大菩薩と称され、寺院の鎮守神として全国へ広まった。平安時代以降は清和源氏の氏神となり、やがて武家全体の守護神「弓矢八幡」と仰がれる。神と仏、朝廷と武家、託宣と国家祭祀——性格を異にする層が幾重にも重なった、習合の典型といえる神である。
由来と歴史
「八幡」の字が文献に現れるのは『続日本紀』天平九年(七三七)の記事が早い。読みは「ヤハタ」で、天平勝宝元年(七四九)の宣命には「広幡乃八幡大神」とある。「幡(はた)」は神の依り代としての旗を指すとされ、八は数の多さを表す。ハチマンという音読は、のちに仏教との結びつきが進むなかで一般化したものである。
注意すべきは、記紀および『続日本紀』に、八幡神を応神天皇とする記述が見えないことである。両者を結びつける記述が現れるのは『東大寺要録』『住吉大社神代記』などで、奈良から平安にかけて習合が進んだとみる説が有力である。一方、宇佐側の社伝『八幡宇佐宮御託宣集』は、欽明天皇三十二年(五七一)に大神比義が「誉田天皇広幡八幡麿」の神託を受けたとし、当初から応神天皇であったとする。出自についても、宇佐の地主神とする説、海人の奉じた神とする説、渡来系の神とする説が並び立ち、柳田國男は鍛冶の神ではないかと考察している。
八幡神の歴史は、神託の歴史でもある。養老四年(七二〇)の隼人の乱では、自ら征討に赴くとの託宣が下り、多くの隼人を殺したことから放生会を修めるようになったと伝える。天平十二年(七四〇)の藤原広嗣の乱では大野東人が戦勝を祈願した。天平勝宝元年(七四九)、東大寺大仏の造営にあたっては宇佐八幡の禰宜尼・大神杜女が上京し、八幡神が造立に協力すると告げた。神護景雲三年(七六九)の宇佐八幡宮神託事件——道鏡を皇位に就けよという託宣の真偽を確かめるべく和気清麻呂が宇佐へ遣わされた一件は、この神が国政の場に立ったことを示している。
神仏習合と八幡大菩薩
天応元年(七八一)、朝廷は宇佐の八幡神に八幡大菩薩の神号を贈った。日本の神が菩薩号を受けたもっとも早い例の一つであり、以後、八幡神は寺院の鎮守として全国に勧請されることになる。本地垂迹の枠組みでは阿弥陀如来を本地仏とするのが通説となったが、日蓮はこれを否定して釈迦牟尼仏を本地とした。
菩薩号成立の背景を御霊信仰から説く見方もある。称徳天皇の死後に聖武天皇の血統が絶え、天災が相次いだ時期、朝廷はこれを祟りと恐れた。宝亀八年(七七七)、聖武天皇の葬儀から二十九年にあたる日に八幡神が「出家」したと社伝は伝え、その四年後に菩薩号が贈られている。聖武天皇の霊が八幡神と結びついたと考え、菩薩号を与えて鎮めようとしたという解釈である。
貞観年間には大安寺の僧行教が宇佐から男山へ勧請し、石清水八幡宮が創建された。平安京の南西、すなわち鬼門の反対側にあたる裏鬼門を守る位置づけである。
図像と象徴
八幡神の像としてもっとも特徴的なのが、僧形八幡神である。剃髪して法衣をまとい、袈裟を掛けて坐すその姿は、本地垂迹の思想が造形として結晶したものといってよい。神でありながら僧の相をとる図像は、他の体系にほとんど類を見ない。本項に掲げるのは正中三年(一三二六)の八幡神坐像(東京国立博物館蔵・赤名八幡宮寄託、重要文化財)で、快慶の作になる東大寺勧進所八幡殿の僧形八幡神坐像(国宝)はこの系統の代表作である。明治の神仏分離に際して各地の僧形神像が撤去されたため、まとまって伝わる作例は貴重である。
神紋は三つ巴。渦を巻く三つの頭を組み合わせたこの紋は宇佐をはじめとする八幡宮と大神氏に用いられ、のちに多くの武家の家紋となった。武神としての性格から、弓・矢・鐙といった武具の奉納も多い。
系譜と関係
八幡三神の構成は社によって揺れる。応神天皇を主神とする点は一致するが、比売神の正体には諸説がある。天照大神とスサノオの誓約に生まれた宗像三女神が宇佐嶋に降ったとする説、玉依姫命とする説、応神天皇の后である仲津姫命とする説、八幡神以前からこの地にあった地主神とする説が並び立ち、いずれかに決着しているわけではない。神功皇后に代えて仲哀天皇や武内宿禰を祀る社も多い。
母である神功皇后が並び祀られることから、母子神信仰の形として理解されることもある。応神天皇が母の胎内にあるうちから皇位を約束されていたとして「胎中天皇」と呼ばれたことも、この理解を支えてきた。八幡宮が安産祈願の対象となるのも同じ文脈である。
皇祖神としては、『承久記』が皇位を伊勢の天照大神と八幡大菩薩の計らいとするように、天照大神に次ぐ皇室の守護神と位置づけられた。宇佐神宮と石清水八幡宮は、伊勢神宮に次ぐ第二の宗廟として崇敬された。
武家の神
清和源氏は八幡神を氏神とした。源頼義は河内国壺井に勧請して壺井八幡宮を氏神とし、その子義家は石清水八幡宮で元服して「八幡太郎義家」を名乗った。康平六年(一〇六三)、頼義が鎌倉の由比郷に勧請した若宮が、のちの鶴岡八幡宮の始まりである。源頼朝は鎌倉に幕府を開くとこれを現在地に遷し、御家人たちも領内に八幡宮を勧請した。
八幡神が武家に選ばれた理由は、単に武の神だからではない。『将門記』は、天慶二年(九三九)に平将門が八幡大菩薩によって「新皇」の位を保証されたと記す。天照大神に連なる朝廷の秩序とは別の系統から権威を与えうる神であった点にこそ、武家にとっての意味があった。室町幕府の足利将軍家は源氏復興を掲げて八幡信仰を推し進め、琉球の尚氏は八幡神ゆかりの巴紋を家紋とした。豊臣秀吉は死後に自らを「新八幡」として祀るよう遺言したと伝えられるが、贈られたのは豊国大明神の神号であった。
文化的足跡
明治元年(一八六八)の神仏分離令により、八幡宮の神宮寺は廃され、八幡大菩薩の号は禁じられ、放生会も石清水祭・仲秋祭と改称された。それでも大菩薩号は民間に残り、第二次世界大戦末期には「南無八幡大菩薩」の幟が航空基地に掲げられている。武と国家鎮護の神という性格が近代にどう用いられたかは、この神を考えるうえで避けて通れない。
八幡神を祀る社の数は一万社とも二万社ともいわれ、稲荷神に次ぐ全国二位とされることが多い。ただし祭神による分類では八幡信仰の社が全国最多(七八一七社)とする集計もあり(岡田荘司ほか)、数え方によって順位は変わる。総本社は大分県宇佐市の宇佐神宮。これに石清水八幡宮と、筥崎宮または鶴岡八幡宮を加えて三大八幡と呼ばれる。