ベルゼブブ
ベールゼブブ · ベルゼブル · ベルゼビュート
「蝿の王」と訳される悪魔。もとはペリシテ人の都市エクロンで祀られたバアルの尊称バアル・ゼブル(気高き主)であり、聖書がこれを語呂の似た蔑称に置き換えたことで、異教の神が悪魔の名に転じた。
解説
概要
ベルゼブブ(ヘブライ語 בַעַל זְבוּב)は、キリスト教の伝承で高位に置かれる悪魔である。名は「蝿の王」、一説に「糞山の主」と解される。ただしこれは本来の名ではない。もとの形はバアル・ゼブル(בַעַל זְבוּל)、すなわち「気高き主」あるいは「高き館の主」であり、バアルの尊称の一つであったと考えられている。一神教の伝承において、悪魔化の経路がこれほど明瞭に追える例は多くない。
神話・物語
『列王記下』1章に、この名の最初の記録がある。北イスラエル王国のアハズヤ王が欄干から落ちて重傷を負い、ペリシテ人の都市エクロンで祀られていたバアル・ゼブブに神託を求めた。預言者エリヤはこれをヤハウェを蔑ろにする行いとして咎め、王は癒えることなく死ぬと告げる。ここで用いられているのは尊称ゼブル(気高き)ではなく、語呂の似たゼブブ(蝿)である。異教の最高神を蔑称で呼ぶという操作が、そのまま聖書に定着した。
新約聖書では綴りが戻る。『マタイによる福音書』12章、『マルコによる福音書』3章、『ルカによる福音書』11章で、律法学者たちはイエスが「悪霊のかしらベルゼブル」の力を借りて悪霊を追い出していると非難し、イエスは、悪霊が仲間の悪霊と争うはずがないと反論する。ここでのベルゼブルはすでに個別の神ではなく、悪霊全体の頭目である。
図像と象徴
近世のグリモワールは、この名にさらに肉付けした。フランス語形ベルゼビュートとして大悪魔・魔界の君主とされ、地獄においてサタンに次ぐ、あるいは実力ではサタンを凌ぐとも語られる。怒らせると炎を吐き狼のように吼え、アスタロトらを擁する蝿騎士団を率いる——といった細部は、いずれも聖書ではなくグリモワール同士の引き写しから膨らんだものである。
今日流布する姿の直接の祖は、コラン・ド・プランシー『地獄の辞典』第6版(1863年)に付されたルイ・ル・ブルトンの挿絵である。ここでベルゼブブは、翅に髑髏の模様を持つ巨大な羽虫として描かれた。誤読された「蝿の王」という名が、二千数百年を経てその姿そのものを決めたことになる。
系譜と関係
起源をたどればバアルであり、両者は名を共有する。同じくバアルに由来する悪魔にバエル(『ゴエティア』序列1番)があり、一つの神名が複数の悪魔に分岐した例となっている。外典『ニコデモ福音書』3章には、ハデスがサタンをベルゼブルと呼びかける場面がある。ミルトン『失楽園』(1667年)では地獄に堕ちた智天使とされ、賢王にふさわしい威厳ある姿で描かれた。
文化的足跡
「蝿の王」の語は、ウィリアム・ゴールディングの小説の題名として広く知られる。悪魔の位階を論じた近世の著作——ヨーハン・ヴァイヤー、セバスチャン・ミカエリス、コラン・ド・プランシー——はいずれもベルゼブブを最上位の近くに置いており、その序列は今日の創作におけるこの名の扱いにもほぼそのまま引き継がれている。