ヘルメース
ヘルメス · メルクリウス(ローマ) · アルゲイポンテース
ギリシア神話の神。神々の伝令であり、旅人・商人・盗人の守護者である。境界を越えることをその職能とし、死者を冥界へ導く役もこの神が担った。
解説
概要
ヘルメース(Ἑρμῆς / Hermes)は、伝令・境界・交易・盗みを司るギリシアの神である。翼あるサンダルで神界と人界と冥界を行き来し、死者を導くプシュコポンポス(魂の導き手)の役もこの神が担った。
職能の一覧は、一見ちぐはぐに見える。伝令、道、商人、盗人、雄弁、羊飼い、そして死者の導き手。だが底には一つのものがある。境界を越えることである。境界を越える者は、伝える者であり、運ぶ者であり、盗む者でもある。ヘルメースはその全部を引き受けた。
名は線文字B文書に e-ma-a2(*hermāhās)の形で現れる。多くの研究者はこれを「石塚」を意味する herma に結びつけるが、herma 自体の語源が分からず、ベーケスはギリシア語以前の語と見る。牧神パーンの一相から分かれたとする説もあり、これに従えば、後にパーンがヘルメースの子とされるのは順序の逆転ということになる。
神話・物語
この神の性格を決めているのは、生まれた日の一日である。ホメーロス風讃歌の一篇「ヘルメース讃歌」はこう語る。マイアの子は朝に生まれ、昼までに揺籠を抜け出し、洞窟の前で亀を見つけてその甲羅に弦を張り、竪琴をこしらえた。夕にはアポローンの牛五十頭を盗み、足跡が逆向きに残るよう後ろ向きに歩かせ、自分は木の枝を編んだ履物で跡をごまかす。夜には揺籠に戻り、産着にくるまって寝ていた。
問い詰められたヘルメースは、生まれたばかりの赤子に牛泥棒ができるはずがないと言い張る。ゼウスの前に引き出されてなお白を切ったが、笑い出した父に促されて牛を返し、そのとき竪琴を弾いてみせた。音に魅せられたアポローンは牛と竪琴を交換し、二柱は和解する。盗みが発明を生み、発明が交渉の道具になり、交渉が同盟に変わる。この神の職能の一覧は、要するにこの一日の要約である。
もう一つの代表作が、百の目をもつ巨人アルゴスの殺害である。ゼウスに愛されたイーオーは牝牛に変えられ、ヘーラーが見張りにアルゴスを立てた。眠るときも目の半分は開いている。ヘルメースは羊飼いに化けて近づき、葦笛を吹き、長話を聞かせて全部の目を眠らせてから討ち取った。以後この神は「アルゴスを殺した者」(アルゲイポンテース)と呼ばれる。腕ではなく退屈で勝った神である。ただしこの添え名の語源については、アルゴス退治の話のほうが名から作られた後付けだとする見方もある。
そのほか、ヘーシオドス『仕事と日』ではパンドーラーに嘘と口車を吹き込み、アポロドーロスの伝えるテューポーン戦では腱を抜かれたゼウスを救い、パリスの審判では三女神を審判の場へ連れて行く。神々が誰かを動かしたいとき、遣わされるのはいつもこの神である。
図像と象徴
持物はケーリューケイオン、つばの広い旅笠ペタソス、翼あるサンダル(タラリア)、そして銭袋。旅装がそのまま神の標識になっている点が、他のオリュンポス神と違う。
造形は時代でくっきり変わる。アルカイック期のヘルメースは髭をたくわえた壮年の旅人・牧者であり、古典期からヘレニズム期には髭のない若者になる。神が年をとるのでなく若返る例はまれで、これはこの神が競技場の守護者となり、青年の理想像と重ねられた事情による。プラクシテレースに帰される《幼児ディオニューソスを抱くヘルメース》はその極点で、赤子をあやす神という主題そのものが、伝令神の枠に収まらない。
だが最も多くの目に触れた「ヘルメース」は、こうした彫像ではない。ヘルマである。四角柱の上に髭の頭部を載せ、柱の中ほどから男根を突き出させた、ほとんど抽象化された標識。これが道端に、家の戸口に、市場に、無数に立っていた。ブルケルトは、この種の記念物がオリュンポスの神になりえたことを驚くべきことだと述べている。図像史から見れば、ヘルメースは全身像よりも柱の姿で人々の日常にいた神である。
翼は当初サンダルそのものに付いておらず、後代の表現で足首や髪から生えるようになる。頭に翼を戴く型はエトルリアのトゥルムスの図像を経てローマへ渡り、今日「メルクリウスの帽子」として知られる姿になった。
系譜と関係
父はゼウス、母はアトラースの娘マイア。生地はアルカディアのキュッレーネー山の洞窟とされ、この神が本来は辺境の牧畜の神だったことをうかがわせる。子にパーン、ヘルマプロディートス、ダプニス、そして人間の側では詐術に長けたアウトリュコス——オデュッセウスの祖父——が数えられる。
ローマではメルクリウスと同一視された(インテルプレタティオ・ロマーナ)。メルクリウスの名は商品(merx)に由来し、二柱は交易という一点で重ねられている。エジプトのトートとの同一視はヘロドトスに遡り(インテルプレタティオ・グラエカ)、こちらは弁論と書記の相を軸にした。同じ神が、どの職能を差し出すかによって別々の神と結ばれたことになる。もっともプラトーンは、両者は似ていないと考えていた。
文化的足跡
トートとの習合は、ヘレニズム期のエジプトで「三重に偉大なヘルメース」(ヘルメース・トリスメギストス)という架空の賢者を生んだ。その名で伝わる文書群は、実際には後1〜3世紀に書かれたギリシア語の著作である。だがルネサンスに再発見されると、モーセより古い知恵の書と信じられ、錬金術と自然魔術の権威となった。1614年、イサク・カソボンが文体と語彙から後代の作であることを論証してこの権威は崩れる。英語で密封を意味する hermetic は、この賢者の名に由来する。
ケーリューケイオンは近代に二つの道を歩んだ。商業の徽章として使われるのは筋が通っている。だがアメリカ合衆国では医療の標識にもなった。蛇一匹のアスクレーピオスの杖と取り違えられた結果であり、盗人と商人の神の杖が病院の看板に載っている。現代の創作でも俊足の伝令神として登場するが、道端の柱としての姿が描かれることはまずない。
領分・別名
図版で辿る
《ヘルメース・ロギオス》(前5世紀の原作に基づくローマ期模刻、アルテンプス宮蔵)/撮影 MARIE-LAN NGUYEN, CC BY 2.5
図版はいずれもパブリックドメインまたは CC0。所蔵館・撮影者の表記は各図版のキャプションに従う。例: The Metropolitan Museum of Art, CC0/Wikimedia Commons のライセンス表記に準拠。
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