ヴィーザル
ヴィダール · ヴィザル · ヴィーダル
北欧神話の神。「沈黙のアース」と呼ばれ、分厚い靴を履く。ラグナロクでオーディンを呑んだ狼フェンリルの顎を裂いて父の仇を討ち、新しい世界を生き延びる。
解説
概要
ヴィーザル(Víðarr)は、北欧神話の神。オーディンと女巨人グリーズの子で、ラグナロクで父の仇を討ち、そして生き延びる。
『ギュルヴィたぶらかし』はこの神を「沈黙のアース」と呼び、分厚い靴を履き、力はトールにほぼ並ぶと紹介する。神々は困難に際してこの神を頼りにするという。名は「広く支配する者」と解されることが多いが、確定していない。
北欧の神々のなかで、ヴィーザルは特異な位置にいる。物語のほとんどが未来形で語られるのである。過去にこの神が何をしたかは、ほとんど伝わらない。伝わるのは、これから何をするかだけである。
神話・物語
『巫女の予言』は、オーディンが狼フェンリルに呑まれたのち、勝利の父の強き子ヴィーザルが進み出て、獣の子の心臓に剣を突き立てて父の仇を討つと歌う。
『ギュルヴィたぶらかし』は、これを別の形で語る。ヴィーザルは片足を狼の下顎に踏み下ろし、片手で上顎を掴んで、口を裂いて殺す。剣ではなく素手である。そして、あの分厚い靴の説明がここで効いてくる——それは、人が靴のつま先や踵から切り落とした革の端切れを、この神が世界の初めから集めたものだという。だからこそ、神々を助けたいと願う者は、その端切れを捨てておかねばならない。日常の仕草が終末の武具になるという、北欧神話でも屈指の奇妙な設定である。母グリーズがくれた靴とし、炎から足を守るためのものと解する説もある。
殺し方が二通り伝わっていることには注意がいる。詩は剣を、散文は素手を語る。スノッリが靴の由来を語るために顎を裂く形に整えたのか、もともと二つの伝承があったのかは決められない。
『ヴァフスルーズニルの言葉』は、ヴィーザルとヴァーリがスルトの炎ののちも神々の聖域に住むと告げる。『ギュルヴィたぶらかし』も、世界が焼かれ海が引いたあと、二人がかつてアースガルズのあった野イザヴォルに住むとする。
『グリームニルの言葉』が伝えるこの神の住処は、印象的である——ヴィーザルの地には灌木と高い草が広く生い茂り、そこで息子は馬の背から、父の仇を討つ覚悟を告げる。手入れされていない、放置された土地。復讐を待つあいだの時間が、そのまま風景になっている。
『ロキの口論』では、ロキが宴に押し入ったとき、オーディンに命じられて席を立ち、この闖入者に酒を注ぐのがヴィーザルである。台詞は一言もない。沈黙の神という性格が、そのまま演出になっている。
図像と象徴
この神の図像は、他の多くの北欧の神格と違って、異教期の石の上に残っている。
イングランド、カンブリアのゴスフォース十字架には、槍を持った人物が怪物の頭に向き合い、片足を獣の裂けた舌と下顎に突き入れ、片手を上顎に当てる場面が彫られている。ヴィーザルとフェンリルの戦いと解されるのが通例で、『ギュルヴィたぶらかし』の記述——顎を裂く——とよく一致する。10世紀前半のものであり、写本より三百年古い。
ただし、この十字架はキリスト教の記念碑でもある。同じ石に磔刑の場面が彫られており、獣の口を裂く人物を「サタンを打ち破るキリスト」の比喩と読む解釈も成り立つ。北欧神話とキリスト教の主題が同じ図像として重ねられている——それがこの記念碑の面白さであって、どちらか一方に決める必要はおそらくない。
写本の図像では、17世紀のアイスランド語写本 AM 738 4to にこの神の姿がある。近代ではローレンツ・フレーリク、W・G・コリングウッドがフェンリルとの場面を描いた。コリングウッドの1908年の挿絵には「ゴスフォース十字架に取材」との但し書きがついており、近代の挿絵が中世の石を参照して作られていたことがわかる。
象徴として一貫しているのは、靴と沈黙である。持物と呼べるものが履物だけという神は、ほかにない。
系譜と関係
父はオーディン、母は女巨人グリーズ。グリーズは、トールが巨人ゲイルロズの館へ向かうとき、力の帯と鉄の手袋と杖を貸した女性でもある。ヴァーリは異母兄弟にあたり、二人でラグナロクを生き延びる。
沈黙については、儀礼的な説明が提出されている。復讐を果たすまで身を清めない、髪を梳かないといった禁忌は、バルドルの仇を討つヴァーリにも見られる。タキトゥスは『ゲルマーニア』第31章で、カッティ族の男が最初の敵を討つまで髭も髪も整えないと記した。沈黙もこの系列の禁欲の一つとする見方である。
スノッリは『詩語法』で、神々を歴史上の人物に読み替える文脈において、ヴィーザルにあたるのはトロイア戦争を生き延びたアイネイアースだと述べている。生き延びて次の世界を建てる者という一点で重ねたのだろう。
文化的足跡
物語が乏しく、台詞もない神であるため、後世の文学や美術での扱いは限られている。19世紀の北欧ロマン主義がラグナロクを主題に選んだとき、ヴィーザルはフェンリルの口を裂く一場面としてのみ描かれた。
現代の創作では、寡黙な戦士という造形で登場することが多い。原典に照らせば、この神の本質は寡黙さそのものではなく、「終わったあとに残る者」であることのほうにある。ラグナロクを扱った物語の多くが滅びで終わるのに対し、『巫女の予言』も『ギュルヴィたぶらかし』も、その先に生き残った神々の名を挙げる。ヴィーザルはその筆頭である。
領分・別名
親・配偶者・子までを表示(全体はフル系図ページへ)。実線=主要伝承/点線=異伝・別系統。