テューポーン
テュポン · テュフォン · テュポーエウス
ギリシア神話最大の怪物。ガイアとタルタロスの末子で、百の蛇頭をもち、ゼウスに宇宙の支配権を賭けて挑んだ。敗れてエトナ山の下に封じられたという。
解説
概要
テューポーン(Τυφῶν / Typhon。テュポーエウス Τυφωεύς とも呼ばれる)は、ギリシア神話でゼウスの支配に正面から挑んだ唯一の存在である。神統記は、ゼウスがティーターンたちを天から追ったのち、ガイアがタルタロスとの間に末子として生んだと語る。ティーターノマキアー、ギガントマキアーに続く三度目の、そして最後の王権闘争がこの怪物との戦いであった。
神とも怪物とも決めがたい。ヘーシオドスは彼を神々の系譜のうちに置くが、描かれる姿は完全に怪物のそれである。ギリシアの王権神話が、ゼウスの支配の正統性を証明するために最後に用意した敵役と見ることができる。
神話・物語
出生の伝えは分かれる。ヘーシオドスはガイアとタルタロスの子とし、アポロドーロスは、ギガースたちを滅ぼされたガイアの怒りから生まれたのだと補う。一方ホメーロス風讃歌のうちアポローン讃歌では、ゼウスが独りでアテーナーを生んだことに憤ったヘーラーが、大地を打って独力で身ごもり、生まれた子を蛇ピュートーンに預けて育てさせたとする。『イーリアス』の古註が伝えるオルペウス系の異伝では、クロノスがヘーラーに与えた二つの卵から生まれたという。父がタルタロスか、母がヘーラー単独か、卵から出たのか——王権を脅かす者の出自は、ついに一本化されなかった。
姿の描写は原典ごとに膨らんでいく。ヘーシオドスによれば、肩から百の蛇の頭が生え、それぞれの目から火が閃き、牡牛の咆哮、獅子の唸り、犬の吠え声、蛇の音といったあらゆる声を発した。アポロドーロスは、頭が星に触れるほどの巨躯で、腿から上は人、腿から下は巨大な蝮のとぐろ、全身に翼をもつと書く。ノンノス『ディオニュシアカ』はさらに獣の頭を積み増し、腕を二百本にした。
ゼウスとの戦いも二通りに語られる。ヘーシオドスでは決着が早い。雷霆の一撃が百の頭を焼き、大地が溶けるほどの熱のなかで、怪物はそのままタルタロスへ投げ落とされる。アポロドーロスの語りは長い。神々は恐れて動物の姿でエジプトへ逃げ(エジプトの神々が獣の頭をもつのはこのためだと説明される)、ゼウスはキリキアのカシオン山で捕らえられ、手足の腱を切られてコーリュキオンの洞窟に閉じ込められる。腱を取り戻すのはヘルメースとパーンである。力を回復したゼウスは追撃し、モイライの与えた「短命の実」を食べて衰えた怪物を、最後にシケリアのアイトネー(エトナ)山の下敷きにした。火山が噴くのはその身悶えだとされる。
図像と象徴
古代の作例は多くない。最もよく知られるのは前540〜530年頃のカルキス式黒絵ヒュドリア(ミュンヘン国立古代美術館)である。腰から上は有翼の人、腰から下は二本の蛇の尾に分かれた姿で描かれ、雷霆を振り上げるゼウスと向かい合う。百の頭も、獣の首もない。文学が数を増やしていったのに対して、図像はむしろ簡潔な型を保った。
腰から下が二匹の蛇という表現は、ギリシア美術で大地から生まれた者を示す記号として広く用いられる。アテナイのアクロポリスから出土した前6世紀の破風彫刻に見える三体一組の蛇身像も、しばしばテューポーンと結びつけて論じられてきた。翼は突風としての性格を、蛇の下半身は大地から出た者であることを示している。
エジプトの神との同一視も図像に影を落とす。前5世紀以降のギリシア人はインテルプレタティオ・グラエカによって砂漠と混沌の神セトをテューポーンと呼び、プルタルコス『イシスとオシリス』はこの呼び名で一貫している。ローマ期エジプトの護符には、この呼称のもとで両者の図像が混じり合った例が見られる。
系譜と関係
父はタルタロス、母はガイア(異伝は前述)。妻は蛇女エキドナで、その間に生まれた子の一覧は資料ごとに増えていく。ヘーシオドスは双頭の犬オルトロス、ケルベロス、ヒュドラーを挙げ、キマイラの父も彼とする。アポロドーロスはネメアーの獅子、黄金の林檎を守る竜ラードーン、プロメーテウスの肝を啄む鷲、スフィンクスを加え、ヒュギーヌスは金羊毛を守る竜やスキュラまで数えた。ギリシアの怪物の多くが、この一組の夫婦に系譜を接がれている。
ヘーシオドスは、敗れたテューポーンから湿った突風が生じたとも述べる。船乗りを襲う不意の暴風は、この怪物が遺したものとされた。
文化的足跡
名の由来は定かでない。ギリシア語で「煙る」「くすぶる」を意味する語根と結ぶ説がある一方、近東の先行神話——ヒッタイトのイルルヤンカシュ退治や、ウガリトのバアルと海神ヤムの戦い——との類似から、東方由来の型を見る研究も多い。竜と嵐の神が世界の支配権を争うという筋書きは、地中海東岸に広く分布している。
英語の typhoon(台風)はこの名としばしば結びつけられるが、アラビア語 ṭūfān や中国語の「大風」など複数の語が絡み合った結果であり、単一の系統には遡れない。天文学では太陽系外縁天体 (42355) テューポーンと、その衛星エキドナに名が採られた。現代の創作でも、ギリシア神話最大の敵という位置づけのまま登場することが多い。
領分・別名
親・配偶者・子までを表示(全体はフル系図ページへ)。実線=主要伝承/点線=異伝・別系統。