ギュスターヴ・ドレ《大洪水》(1866年、聖書挿絵)/WIKIMEDIA COMMONS、パブリックドメイン
分布
洪水で世界が滅び、一人の人間が箱舟で生き延びる。この物語の主人公を、本サイトは四つの体系で記事にしている。シュメールのジウスドラ、アッカドのアトラ・ハシースとウトナピシュティム、ギリシアのデウカリオーン、インドのマヌ。これに聖書のノアを加えると、五つの体系にまたがる。
さらに広げれば、中米には第四の太陽の世界が洪水で終わって人々が魚になったという伝承があり、中国には女媧と共工の物語がある。北米、ポリネシア、アフリカにも洪水譚はある。分布は広い。
この広さから、二つの説明が繰り返し提出されてきた。一つは、一度の実際の大洪水が全人類の記憶に残ったという説。もう一つは、人類の心が同じ構造を持つゆえに同じ物語を生むという説。第2章で見たとおり、どちらも検証できない。検証できるのは、個別の系譜だけである。
同源と言える四つ
メソポタミアの洪水譚は、四つの文献に残っている。シュメール語の洪水物語(前十七世紀ごろの写本)、アッカド語の『アトラ・ハシース叙事詩』(古バビロニア時代、前十七世紀ごろ)、『ギルガメシュ叙事詩』第十一書板(標準版は前二千年紀末)、そして創世記六〜九章。
この四つは、文言のレベルで対応する。神々が洪水を決め、一柱の神(エンキ/エア)が一人の人間に葦の壁越しに警告する。舟を作れ、あらゆる生き物の種を積め。洪水が来て、舟は山に着く。生き残った男は鳥を放って水の引き具合を確かめる——ウトナピシュティムは鳩、燕、鴉の順に放ち、ノアは鴉と鳩を放つ。上陸すると犠牲を捧げ、神々がその香りに集まる。
これは同源である。舟の形(『ギルガメシュ』では立方体、創世記では長い箱、アトラ・ハシースの一写本では円い籠舟)や、生き残る理由(神々の争い、あるいは人間の騒がしさ、あるいは人間の悪)は文献ごとに違う。しかし筋書きの順序と細部の一致は、独立発生では説明できない水準にある。前三世紀のバビロニアの神官ベロッソスがギリシア語で書いた洪水譚の主人公クシストロスは、ジウスドラの名の転写である。二千年にわたって、一つの物語が言語を変えながら伝わったことが、文献の年代で追える。
そこから先はつながらない
デウカリオーンとマヌはどうか。
デウカリオーンは、ゼウスが青銅の種族を滅ぼすために起こした洪水を、父プロメーテウスの助言で箱舟を作って生き延びる。舟はパルナッソス山に着き、妻ピュラーとともに石を投げて人間を再生する。筋書きの前半は近東と似ている。しかし後半——石から人が生まれる——は近東の洪水譚にはない。二世紀のルキアノスは、シリアのヒエラポリスにデウカリオーンの洪水を記念する神殿があると伝えており、ギリシア人自身がこの物語を東方と結びつけていたことが分かる。同源の可能性は、ある。だが決定的な文言の対応はなく、仮説にとどまる。
マヌは、『シャタパタ・ブラーフマナ』において、小さな魚を育てたことの報いとして洪水を予告され、舟で山に着く。魚は後代のプラーナ文献でマツヤ——ヴィシュヌの化身——となった。舟が山に着く点は共通するが、魚が警告するという骨格は近東にはない。近東からの影響を疑う研究者はいるが、証明されていない。
そして中米とポリネシアの洪水譚には、近東と結ぶ経路がまったくない。中米の洪水は「五つの太陽」という世界の周期の一つであり、チャルチウィトリクエの治める第四の世界が水で終わって、次の世界が始まる。生き残る一人の男という骨格を持たない。
中国はさらに違う。女媧の物語は天の修復であり、共工の物語は天柱の破壊である。そして中国の洪水譚の主役である禹は、洪水を生き延びた人ではなく、洪水を治めた人である。長年の治水の末に水を導いて海へ流し、その功で王となる。「生き残る」話ではなく「治める」話であり、型そのものが別である。
洪水神話が世界中にある、という言い方は正しい。だが「洪水神話」という一つの箱に入れた瞬間、メソポタミアの四話が持つ文言の一致と、中米・中国の話が持つ骨格の違いが、同じ箱のなかで区別できなくなる。人類共通の記憶という説明は、この箱の中身を見ないことで成り立っている。
洪水と終末は違う
洪水は世界の終わりのように見える。だがほとんどの洪水譚には、生き残りがいる。ジウスドラ、ウトナピシュティム、ノア、デウカリオーン、マヌ——彼らが生き延びるからこそ、物語は語られる。洪水は終末ではなく、作り直しである。第3章で見た創世の型が、ここで反復されている。
では、終末そのものを語る神話はどうか。
北欧のラグナロクでは、フェンリルがオーディンを呑み、ヨルムンガンドがトールを倒し、スルトの炎が世界を焼く。だが『エッダ』の「巫女の予言」は、そのあとに大地が再び海から緑に浮かび上がり、バルドルが還ってくると歌う。「ヴァフスルーズニルの言葉」は、森に隠れて生き延びる一組の男女の名を伝える。世界は終わり、そして続く。
インドのユガは、四つの時代が順に劣化し、最後のカリ・ユガの終わりにカルキが現れて悪を滅ぼし、最初の時代がまた始まる。中米の五つの太陽は、世界が四度終わって五度目にいる。いずれも、終わりの後に始まりがある。終末を語る神話は、ほとんどの場合、再生を語る神話である。
循環する時間と、直線の時間
違いは、それが繰り返すかどうかにある。
ユガは繰り返す。五つの太陽も繰り返す。ラグナロクの後の世界がまた終わるかどうかは語られないが、少なくとも一度は繰り返した。これらの体系では、時間は円である。
ゾロアスター教の終末は違う。サオシュヤントが現れ、死者が甦り、溶けた金属の川が善悪を分け、アンラ・マンユが滅び、世界が最終的に更新される。これは一度きりである。更新された世界は、もう終わらない。一神教の終末論も同じ形を持つ——最後の審判の後に新しい天と地があり、それは永遠である。ここでは時間は直線であり、終点がある。
この違いは、洪水譚の読み方にも跳ね返る。円の時間のなかで洪水は周期の一つであり、直線の時間のなかで洪水は一度きりの裁きである。同じ「水で世界が終わる」話が、時間の形によって別の意味を持つ。
総仕上げ
第2章で、似ていることから何が言えるかの線を引いた。第3章で創世神話にその線を当て、この章で洪水と終末に当てた。結果は同じである。文言と系譜で追える範囲では同源を言い、追えない範囲では言わない。似ているという印象だけで箱を作らない。
洪水神話は、この方法がもっとも鮮明に効く題材である。四つは確かにつながっている。残りは、つながっていない。両方を同じ強さで言えることが、方法が働いている証拠である。