アペプ
アポピス · アアペプ · アペピ
エジプト神話で闇と混沌を体現する大蛇。太陽神ラーの最大の敵として夜ごと太陽の船を襲い、そのつど討たれる。神殿も供物ももたず、滅ぼされるためだけに語り継がれた存在である。
解説
概要
アペプ(ꜥꜣpp / Apep)は、エジプト神話で闇と混沌を体現する大蛇である。ギリシア語形のアポピス(Ἄποφις)でも広く知られる。エジプト語は母音を書かないため、本来の発音は確定しない。
この存在は、マアトが体現する世界の理法に対して、イスフェトすなわち混沌そのものを担う。「ラーの敵」「混沌の主」と呼ばれ、太陽神ラーの夜の航行を毎晩襲う。
エジプトの神々のなかで、アペプの位置は特異である。神殿も、供物も、祭祀を捧げる神官団も存在しない。にもかかわらず神殿文書と葬祭文書には頻出し、その名を消すための儀礼が制度として整えられた。崇拝されるためではなく、破壊されるために語り継がれた存在である。
なお第15王朝(ヒクソス)にアペピ(ギリシア語形アポフィス)を名とする王が複数いるが、これは人間の王であって、この蛇とは関わりがない。
神話・物語
出自については伝承が割れる。世界が生まれる以前の原初の水ヌンから、秩序が定まるより先に生じたとするもの。ラーの臍の緒から、つまり太陽神より後に生まれたとするもの。原初の水にいたネイトが吐いた唾から、120ヤードに及ぶ蛇となったとするもの。もとは太陽の役割を担っていたがラーに奪われ、それゆえ憎むようになったという説明も伝わる。起源を一つに定めないまま、機能だけが確定している存在である。
戦いの舞台は夜である。ラーは夜の船メセケテトで冥界を進み、その途上でアペプに遭う。待ち伏せの場所は、日の沈む西の山マヌとも、夜明け直前の第10時の領域ともいう。居場所の指定が定まらないことから「世界を取り巻く者」の称号も生まれた。その咆哮は冥界を揺るがし、その身動きが地震になるとされた。
コフィン・テキストは、アペプが魔力ある眼差しでラーの一行を圧倒したと記す。船の乗員のなかで最も強かったのがセトで、舳先に立って槍を投げ、蛇を突き伏せる。兄殺しの神が世界を守るという構図は、エジプトの神学が矛盾を解こうとしなかったことをよく示している。ラー自身が猫の姿となって蛇を屠る版もある。
日食や嵐は、この戦いで蛇が優勢になった徴とみなされた。太陽が昇るという毎朝の事実は、勝ち取られた結果として説明されている。
図像と象徴
アペプは巨大な蛇として描かれる。とぐろを幾重にも巻き、身体には刃物が突き立てられ、あるいは細かく刻み目が入れられる。名を記すヒエログリフにも、蛇の決定符にナイフを刺した書き方が用いられた。書くこと・描くことがそれ自体力を与えてしまうという前提があり、そのため蛇単独の図はほとんどなく、必ず制圧する側の神が同じ画面に置かれる。
最もよく知られるのが、本サイトが主画像に掲げるデイル・エル=メディーナ、インヘルカアの墓(TT359)の壁画である。「ヘリオポリスの大猫」が聖樹イシェドの根方で蛇の首にナイフを当てている。『死者の書』第17章の挿絵に由来する場面で、ラーが猫に姿を変えて敵を屠るという伝承を図に写したものである。第21王朝の『死者の書』チェリトウェベシェト本には、太陽の船の舳先からセトが槍を振りかぶる場面がある。王墓の「冥界の書」——『アムドゥアト書』『門の書』——では、縛られ、切り刻まれた姿で時間ごとに現れる。
蛇はエジプトにおいて敵とは限らない。ラーに巻きついてこれを守る蛇メヘンがおり、王の額のコブラウラエウスは守護の徴である。同じ動物が守護にも脅威にもなるという振れ幅のなかで、アペプは最も遠い極に置かれている。
ナカダI期(前4000〜3550年頃)の土器に描かれた、船上の神像と対峙する大蛇の図を、アペプの最古の表現とみる説がある。ただし図中の人物が太陽神の原型であるという前提そのものが推定であり、確証はない。
系譜と関係
親も子も配偶神ももたない。原初の水から出たか、ラーの身体から出たか、ネイトの唾から出たかという異伝があるのみで、系譜の網の外に置かれている。
関係が動くのはセトとの間である。古くはセトがアペプを退治する側だった。ところが後期以降、異国の支配が続くなかでセト自身が悪魔視されると、両者はしだいに同一視されるようになる。混沌を退ける者が混沌そのものへ移されたわけで、神格の評価が政治状況とともに動いた例である。
北欧のヨルムンガンド、ヒンドゥーのヴリトラ、聖書のレヴィアタンなど、秩序に敵対する巨大な蛇の型は各地にある。ただしこれらは機能の類似であって、系統の共有を示すものではない。
文化的足跡
祭祀は、この存在を滅ぼすためにある。神官はアペプ撃滅の書の手順に従い、蝋で像を作り、あるいは新しいパピルスに蛇を描き、唾を吐き、左足で踏み、槍で突き、縛り、刃で刻み、火にくべた。日の出・正午・日没ごとに行われ、嵐や日食のときには非常時の所作として繰り返された。年に一度は、エジプト中の悪を封じ込めたとされる像を焼く大がかりな儀礼が催された。
死者にも備えが要る。冥界に住むアペプは魂を喰らうとされ、『死者の書』第7章と第39章は、この蛇から身を守るための呪文である。
1822年のヒエログリフ解読以降、この蛇はしばしば善悪二元論の枠に当てはめて紹介されてきた。だがエジプトの神学は、善と悪を対等に立てる構図をもたない。アペプが害をなすのは、それが秩序の外にあるからであって、道徳の対立軸によるのではない。地球に接近する小惑星(99942)アポフィスの名はこの蛇に由来し、現代のゲームや漫画にも名が出るが、造形も設定も作品ごとのものである。
領分・別名
親・配偶者・子までを表示(全体はフル系図ページへ)。実線=主要伝承/点線=異伝・別系統。