エキドナ
エキドゥナ · エキドナー
ギリシア神話の女怪。上半身は乙女、下半身は大蛇で、洞窟に独りで棲む。テューポーンとの間にケルベロス、ヒュドラー、キマイラら名だたる怪物を生んだ。
解説
概要
エキドナ(Ἔχιδνα / Echidna)は、上半身が乙女、下半身が大蛇の女怪である。名はギリシア語で「雌の蝮」を意味する。神統記は彼女を、洞窟の底に独りで棲み生肉を喰らう存在と描き、死ぬことも老いることもなく、人にも神にも似ないと言う。
物語の主役として現れることはほとんどない。にもかかわらず重要なのは、ギリシア神話の名だたる怪物の多くが彼女から生まれているからである。テューポーンを夫とし、ケルベロス、ヒュドラー、キマイラ、スフィンクス、ネメアーの獅子、そして双頭の犬オルトロスや黄金の林檎を守る竜ラードーンの母とされた。系譜の結節点として神話の骨格に組み込まれた存在である。
登場する物語
自ら英雄と戦う話は乏しい。アポロドーロス『ギリシア神話』は、道行く者をさらっていたエキドナを、百の眼をもつアルゴスが眠っているところを襲って殺したと記す。ただしヘーシオドスの伝えでは彼女は老いも死にもしない。二つの記述は噛み合わない。
住処も一定しない。ヘーシオドスは彼女を「アリマの地の下」に置く。『イーリアス』が「アリモイにあるテューポーエウスの臥所」と呼ぶ土地であり、キリキア(現トルコ南部)に比定されることが多い。一方アリストパネス『蛙』は彼女を冥界の住人とし、夫と同じく百の頭を与えている。
ヘロドトス『歴史』第4巻は、スキュティアの地でヘーラクレースが半人半蛇の女に出会い、その間に生まれた三人の末子スキュテースがスキュティア人の祖となったという伝えを記す。ヘロドトスはこの女を蝮女(エキドナ)と呼ぶが、ヘーシオドスの怪物と同一の存在として語ってはいない。名がまず一般名詞として存在し、そこから固有の怪物が立ち上がったことをうかがわせる。
図像と象徴
古代の作例で、銘によってエキドナと同定できるものは知られていない。彼女は基本的に文字のなかにだけ存在する怪物である。
半人半蛇という型そのものは古代美術に広く見られる。アテナイのアクロポリスから出土した前6世紀の破風彫刻の蛇身の存在、アテナイの始祖ケクロプスやエリクトニオスの蛇身表現、黒海北岸のスキュティア美術に繰り返し現れる蛇足の女神像などである。だがそのどれもエキドナとは名指されていない。
姿を伝えるのは文章のほうである。ヘーシオドスの描写は具体的で、頬美しく目のきらめく乙女の上半身に、まだらの肌をもつ巨大な蛇の下半身が接がれる。オルペウス教系の伝えでは、女の頭と長い髪をもち、首から下がすべて蛇であるとされ、人と蛇の境目の位置が違う。ノンノスはただ「醜い」と書き、毒を強調する。どこで人が終わり蛇が始まるかは、伝承ごとに動いている。
空白を埋めたのは近世である。イタリア中部ボマルツォの「怪物公園」(サクロ・ボスコ、16世紀半ば)には、獅子を左右に従えた蛇身の女像が置かれ、古くからエキドナと呼ばれてきた。以後の図版は、おおむねこの型を踏襲している。
関わる伝承
系譜は資料ごとに割れる。ヘーシオドスの文中の「彼女」が誰を指すかが曖昧で、海の女神ケートーとポルキュースの娘と読むのが通例だが、オーケアノスの娘カリロエーと、メドゥーサの子クリューサーオールの娘と読む余地も残る。ペレキューデースはポルキュースの娘とし母を挙げない。パウサニアスが引くエピメニデースはステュクスとペイラースの娘、アポロドーロスはタルタロスとガイアの娘、オルペウス教の伝えは原初神パネースの娘とする。
子の一覧は時代とともに増える。ヘーシオドスはオルトロス、ケルベロス、ヒュドラーを挙げ、キマイラの母も彼女と読める。ラソスはスピンクスを、アクーシラーオスはプロメーテウスの肝を啄む鷲を、ペレキューデースはラードーンを加えた。アポロドーロスはさらにクロンミュオーンの牝豚を、ヒュギーヌスは金羊毛を守る竜とスキュラを数える。新たな怪物が語られるたび、その母としてエキドナの名が呼ばれた。
文化的足跡
オーストラリアとニューギニアに棲む単孔類ハリモグラは、英名を echidna という。哺乳類でありながら卵を産むという中間的な性格が、半人半蛇の名に結びつけられた。ウツボ属の学名 Echidna も同じ由来である。天文学では、太陽系外縁天体 (42355) テューポーンの衛星にエキドナの名が与えられている。夫の名を負う天体を回る衛星という配置は、系譜の関係をそのまま写している。
近代以降の幻想文学やゲームでは、「怪物の母」という肩書きがほぼそのまま設定として引き継がれている。
領分・別名
親・配偶者・子までを表示(全体はフル系図ページへ)。実線=主要伝承/点線=異伝・別系統。