ステュクス
Styx
冥界を流れる大河であり、その河を神格化した女神。神々の誓いはこの水にかけて立てられ、破れば重い罰が下る。オーケアノスの娘たちの長姉とされる。
解説
概要
ステュクス(Στύξ / Styx)は、冥界を流れる河であると同時に、その河が神のかたちをとった女神でもある。名は「身の毛のよだつもの」「戦慄」を意味すると解されてきた。ギリシアの神々にとって最も重い誓いは、この河の水にかけて立てられる。人を裁く神ではなく、神々自身を縛る装置としてはたらく点に、この女神の特異さがある。
神話・物語
系譜については伝承が割れる。ヘーシオドス『神統記』は、オーケアノスとテーテュースの娘たち、すなわちオーケアニスの長姉とする。これに対しローマの神話集成家ヒュギーヌスは、夜と闇――ニュクスとエレブス――の娘とした。夫についても、通常はパラースとされるが、クレータのエピメニデースはペイラースなる神を夫とし、両者のあいだにエキドナが生まれたと伝えたとパウサニアースが記す。さらにアポロドーロスは、ある箇所でペルセポネーの母をステュクスとしている。ただし同じアポロドーロスが略奪の物語を語るときには、娘を探して歩くのはデーメーテールである。
誓いの神としての地位の由来は『神統記』が語る。ティーターノマキアーに際してゼウスは全神に参陣を呼びかけ、味方する者には現在の権能を保証し、権能を持たぬ者には新たに与えると約束した。父オーケアノスの勧めに従い、ステュクスは子らを引き連れて真っ先にゼウスの側についた。その報いとして、ステュクスは神々の誓いそのものとされ、子らは以後ゼウスのもとに常住することを許された。
誓いの手続きは具体的である。イーリスが冥界へ下り、黄金の水差しにステュクスの冷たい水を汲んで運ぶ。神はこれを注いで誓う。偽れば罰は重い。一年のあいだ息をせず声も出せぬまま横たわり、ネクタルもアムブロシアーも口にできない。そののち九年にわたって神々の会議と饗宴から締め出され、十年目にしてようやく席へ戻ることを許される。不死の者に対して、死に代わる罰として時間の剥奪を課す発想である。
河としてのステュクスは、オーケアノスの水の十分の一を分け与えられ、地の下を巡ってのち高い岩から滴り落ちるとされる。『イーリアス』では冥界の境界をなし、『アエネーイス』では冥府を九重に取り巻いて渡し守カローンがここを漕ぐ。ただし生者と死者の境をなす河としては、アケローンを挙げる例のほうが多い。『オデュッセイア』ではコーキュートスがステュクスの支流とされる。日本語の資料でしばしば見る「ステュクスの四支流」という整理は、冥界の河の名を後世に体系化したものであって、原典が一様にそう述べているわけではない。
水の性質にも相反する伝えがある。プリニウスは飲めば即死する猛毒とし、雌の騾馬の蹄だけがこの水に侵されないと書いた。プルータルコスは驢馬の蹄、パウサニアースは馬の蹄だけが器になりうるとする。アレクサンドロス大王の死をこの水による毒殺とみる噂も古代からあった。他方、母テティスが幼いアキレウスをこの水に浸して不死の身にしたという有名な話は、1世紀のローマ詩人スタティウス『アキレイス』に見えるもので、古典期ギリシアの伝承には遡らない。掴んだ踵だけが濡れずに残ったという細部も、この系統の話に属する。
古代人はこの河を地上にも探した。アルカディアのノーナクリス近く、ヘルモス山の断崖を落ちる細い滝がそれで、現在はマヴロネリ(黒い水)と呼ばれる。ヘロドトスは、スパルタ王クレオメネスがこの水にかけて人々に誓わせたと記す。パウサニアースは2世紀に現地を訪ね、廃墟のかたわらの高い崖から水が滴っていたと書き残した。神話の河が実在の滝の名を借りたのか、実在の滝が神話を生んだのかは決めがたい。
図像と象徴
ステュクスを名指して描いた古代の作例はほとんど残らない。抽象の重みに比して図像が乏しいのは、この神格が儀礼の対象ではなく、誓約という言語行為の保証人だったことと関わるだろう。
近世になると、河のニュンペー像の系列のなかに位置づけられる。主画像に掲げたフィリップス・ハレの銅版画(1587年、アントウェルペン)は、河と水のニュンペーを描く十七図の連作の最終図で、版面下に「STIX」の銘がある。ステュクスは石の塊に腰かけ、傾いだ水瓶に足を掛け、うつむいている。背後には地獄の炎が渦を巻き、左手には冥府の建物が見える。水瓶に凭れる姿勢は古代以来の河神の定型だが、そこに火を配することで、この河が冥界のものであることを示している。
ダンテ『神曲』地獄篇では、ステュクスは第五圏の沼として現れ、憤怒の者と陰気の者がその泥に沈む。渡し守はカローンではなくフレギュアースである。英語の形容詞 stygian が「陰鬱な」「暗澹たる」を意味するのは、この河の名からの転義である。
系譜と関係
父オーケアノス、母テーテュース。夫はティーターンのパラース。子はニーケー・クラトス・ビアー・ゼーロスの四柱で、勝利・力・暴力・競争心という、いずれも権力の作用を名とする神々である。ゼウスの玉座を固めているのがこの兄弟だという配置は、ヘーシオドスの世界観をよく示している。誓約を司る点で法と誓約の神の、冥界の河である点で死神・冥界神のファセットにまたがる。
境界としての河は他の体系にも見える。北欧のギョッル、日本の三途の川などである。ただしこれらは死の観念が河という比喩を選びやすいことの現れであって、系統上のつながりを示すものではない。
文化的足跡
2013年、冥王星の第五衛星にステュクスの名が与えられた。カローン、ニクス、ヒュドラ、ケルベロスと並び、冥界にちなむ命名で統一されている。
領分・別名
親・配偶者・子までを表示(全体はフル系図ページへ)。実線=主要伝承/点線=異伝・別系統。