パーン
パン · アイギパーン · ファウヌス(ローマ)
ギリシア神話の牧神。アルカディアの野と牧羊・家畜を司り、山羊の脚と角を持つ。葦笛を吹きニンフを追う半獣の神で、突然の恐慌『パニック』の語源となった。
解説
概要
パーン(Πάν / Pan)は、ギリシア神話の牧神で、野・牧羊・家畜・自然を司る。腰から下と角が山羊、上半身が人という半獣の姿を持ち、故郷アルカディアの山野を舞台にニンフたちと戯れる。葦笛を吹き鳴らす音楽の神であり、同時に旅人を襲う理由なき恐慌——「パニック」の語源——を体現する神でもある。オリュンポスの整った神々とは対照的に、原初的で猥雑な生命力をまとう。
神話・物語
出自には異伝が多い。もっとも流布した系譜は『ホメーロス風讃歌』第19歌の伝えるヘルメースを父とする説で、母はドリュオプスの娘とされるニンフである。生まれ落ちた子の異形に母は驚いて逃げたが、ヘルメースはこれを喜んでオリュンポスに連れ帰ったという。ほかにゼウスやアポローンを父とする伝えもある。
葦笛の由来を語るのがニンフのシュリンクスの物語である。パーンに追われたシュリンクスは川辺で葦へと姿を変え、パーンがその葦を切って束ね、吹き鳴らしたのが牧笛シュリンクス(パンパイプ)の起こりとされる。木霊の妖精エーコーや、松に変じたピテュスへの片恋も語られる。
図像と象徴
パーンの造形は一貫して半獣である。巻き角、尖った耳、山羊の下肢と蹄、顎鬚をたくわえた面貌が定型で、しばしば葦笛や牧杖(ラゴーボロン)を手にする。ナポリ国立考古学博物館の「パーンとダプニス」群像は、少年ダプニスに笛の指使いを教えるパーンを刻み、荒々しさの陰にある教導者の一面を伝える名品である。豊穣神としての性格から男根を誇張して表されることも多く、後世のサテュロス像や、キリスト教美術における悪魔の山羊面の造形にも影を落とした。
系譜と関係
パーンは明確な親子系譜よりも、野に棲まうニンフやサテュロスとの群れのなかで語られる神である。ディオニューソスの一行にしばしば加わり、酒宴と乱舞の眷属とみなされた。ローマでは森と牧畜の神ファウヌスと同一視され(インテルプレタティオ・ロマーナ)、さらにシルウァーヌスやインウウスとも結び付けられた。比較言語学では、パーンの名を印欧祖語の牧畜神 *Péh₂usōn に遡らせ、ヴェーダの神プーシャンと同源とみる説が有力である。ただしこれは語源上の対応であって、両者の神話が同じというわけではない。
文化的足跡
プルタルコスは『神託の衰微について』で、ティベリウス帝の治世に「偉大なるパーンは死せり」という叫びが海上に響いたという逸話を伝える。この一句は、古代の神々の終焉を告げる寓意として後世に繰り返し引用された。またヘロドトスによれば、マラトンの戦いに際してパーンはアテナイ勢に味方し、アクロポリス北麓の洞窟に祭祀を得たという。近代以降はロマン主義や自然賛美の象徴として復権し、現代の創作作品にも牧神の系譜が受け継がれている。
領分・別名
親・配偶者・子までを表示(全体はフル系図ページへ)。実線=主要伝承/点線=異伝・別系統。