アトラ・ハシース
アトラハシス · アトラ・ハーシス · アトラハシース
同名のアッカド語叙事詩の主人公。「きわめて賢き者」を名とし、エンキの助言で船を造り大洪水を生き延びる。人間の創造から洪水までを一続きに語る物語の中心に立つ。
解説
概要
アトラ・ハシース(𒀜𒊏𒄩𒋀 Atra-ḫasīs)は、前18世紀のアッカド語の叙事詩に名を残す人物である。名は「きわめて賢き者」を意味し、より古い形はアトラム・ハシースであった。シュメール王名表はシュルッパクの支配者としてこの名を挙げる。
彼を主人公とするアトラ・ハシース叙事詩は、三枚の粘土板に記された。最も完全な写本はハンムラビの曾孫アンミ・サドゥカ王期(前1646〜前1626年)の奥書をもつ古バビロニア版で、ほかにウガリトから出た断片やアッシリア方言の版が知られる。1876年にジョージ・スミスが断片を組み、1965年にW・G・ランバートとA・R・ミラードが多くの新資料を加えて全体像を示した。
同じ洪水の生存者は、シュメール語ではジウスドラ、ギルガメシュ叙事詩ではウトナピシュティムと呼ばれる。名は変わっても、エンキの助言で船を造り生き延びるという筋は共通する。
神話・物語
叙事詩は洪水そのものより、洪水にいたる理由を語ることに重心を置く。第一の書板では、エンリルの命で運河を掘り土を耕す下位の神々イギギが、重労働に耐えかねて道具を焼き反乱を起こす。エンキは、代わって働く者として人間を造ることを提案した。母なる女神ニンフルサグ(マミ)は、殺された神ゲシュトゥ・エの肉と血を粘土に混ぜ、そこに神々が唾を加えて人を成した。十月ののち最初の人間が生まれる。
第二の書板では、人間が増えすぎてその騒がしさにエンリルが眠れなくなる。彼は千二百年ごとに疫病、旱魃、飢饉を送って人口を抑えようとするが、そのたびアトラ・ハシースはエンキに教えられた手立てで難を逃れた。手が尽きたエンリルは、ついに大洪水で人類を絶やすと決める。
第三の書板が洪水である。エンキは葦の壁を通してアトラ・ハシースに告げ、家を壊して船を造らせた。彼は家族と獣を乗せて扉を閉ざす。嵐の七日ののち彼は犠牲を捧げ、神々は香に群がった。エンリルは秘密を漏らしたエンキを咎めるが、和解が成り、以後は洪水ではなく死産や不妊、女祭司の制度によって人口を保つ取り決めが結ばれる。人間はなぜ造られ、なぜ滅ぼされかけ、なぜ死ぬのかが、一本の筋で説明される構成になっている。
図像と象徴
アトラ・ハシースを描いた古代の図像は知られていない。この人物を伝えるのは粘土板であり、メトロポリタン美術館が所蔵する前7〜6世紀の楔形文字の板をはじめ、各地に残る叙事詩の写本が資料をなす。神々の反乱、粘土からの人間の造成、方舟という三つの主題は、いずれも文字資料のなかで語られ、図像化された形跡が確認されていない。
系譜と関係
彼は神ではなく、シュルッパクの王あるいは祭司として語られる。エンキとの関係が物語の骨格をなし、その助言なしには一つの危機も切り抜けられない。エンリルは一貫して気まぐれで苛烈な神として、エンキは人間の側に立つ知恵の神として描かれ、この対比が叙事詩の主題そのものになっている。母なる女神ニンフルサグ(マミ)は人間の造り手として現れ、洪水の場面では自ら造ったものが滅ぶことを嘆く。
文化的足跡
ギルガメシュ叙事詩の第11書板は、この物語をほぼそのまま組み込んでいる。エアが「私はアトラ・ハシースに告げたのではない、夢を見せただけだ」と弁明する箇所は、その借用のあとを本文自身が残したものである。ステファニー・ダリーは、アトラ・ハシースの名とギリシア神話でデウカリオーンに洪水を告げるプロメーテウスとの重なりを指摘した。洪水神話の比較において、この叙事詩は最も体系的な記録として参照され続けている。