クリシュナ
クリシュナ神 · ゴーヴィンダ · ゴーパーラ
ヒンドゥー教で広く崇拝される神格。ヴィシュヌの化身とされ、一部の派ではむしろ最高神そのものとされる。バターを盗む幼児、笛で牛飼いの女たちを呼ぶ若者、戦場で教えを説く御者——三つの相で語られる。
解説
概要
クリシュナ(कृष्ण / Kṛṣṇa)は、ヒンドゥー教でもっとも親しまれている神格の一柱である。名は「黒い」「暗青の」を意味する。通常はヴィシュヌのアヴァターラ(化身)と位置づけられるが、『バーガヴァタ・プラーナ』に基づく信仰やガウディーヤ派では、クリシュナこそが本体(スヴァヤン・バガヴァーン)であり、ヴィシュヌのほうがその展開とされる。本体と化身の向きが、派によって逆転する。
この神が特異なのは、まったく異なる三つの相が一人の神格に同居していることである。悪戯を重ねる幼児、笛で女たちを恍惚とさせる牛飼いの若者、そして戦場で人間の生き方を説く冷静な御者。愛らしさと官能と峻厳が、どれも切り落とされずに残っている。
神話・物語
マトゥラーの王カンサは、妹デーヴァキーの八番目の子に殺されると告げられ、生まれる子を次々に殺した。八番目の夜、父ヴァスデーヴァは嬰児を抱えてヤムナー河を渡り、対岸の牛飼いの村へ託す。子はヤショーダーとナンダに育てられ、自分の出自を知らずに育つ。
牛飼いの村ヴラジでの幼年期が、この神の物語の核である。カンサが送り込んだ羅刹女プータナーは、毒を塗った乳房を含ませて嬰児を殺そうとしたが、逆に乳とともに命を吸い取られた。ヤムナー河を毒したカーリヤの頭上で舞ってこれを降し、河の水を清らかに戻した一段も名高く、美術の主題として繰り返し表された。バターの壺に手を突っ込んで叱られ(マーカンチョール=バター泥棒)、母に口の中を覗かれてそこに全宇宙を見せる。村人がインドラへの祭を捧げようとするのを止めさせ、怒った雷神が七日七夜の豪雨を降らせると、ゴーヴァルダナ山を小指一本で持ち上げ、傘のようにして村と牛を守った。本記事の主画像はこの場面を描いている。月夜には笛を吹き、牛飼いの女たち(ゴーピー)が家を抜け出して森へ集まり、輪になって踊る(ラーサ・リーラー)。
やがてマトゥラーへ戻ってカンサを討ち、王となる。だが娘たちを寡婦にされたマガダ王ジャラーサンダが十七度にわたって攻め寄せたため、一族を率いて西の海辺へ移り、ドヴァーラカーの都を築いた。『マハーバーラタ』のクリシュナはここから先の姿である。同族の戦を前に、親族に矢を向けることをためらって弓を落としたアルジュナに対し、御者となったクリシュナが行為と献身について説く——それが『バガヴァッド・ギーター』であり、そのなかで彼は人間の目に耐えがたい宇宙的な姿を一度だけ顕す。最期は呆気ない。ヤーダヴァ族が同士討ちで滅んだのち、木陰に横たわるクリシュナの足の裏を、猟師ジャラーが鹿と見誤って射た。
資料の層を分けて読む必要がある。『マハーバーラタ』(前4世紀〜後4世紀に成立)のクリシュナは、まず王であり策略家であって、幼年の物語はほとんど語られない。牛飼いの村の挿話を大きく展開するのは『ハリヴァンシャ』(4〜5世紀)と『ヴィシュヌ・プラーナ』、そして10世紀頃の『バーガヴァタ・プラーナ』第十巻である。ラーダーに至っては、これらにも名を現さない。彼女が決定的な位置を得るのは12世紀、ジャヤデーヴァの叙情詩『ギータ・ゴーヴィンダ』においてである。今日クリシュナといえばラーダーと対で思い浮かぶが、その対は千年以上あとの成立である。
英雄クリシュナと牛飼いクリシュナは、もともと別系統の崇拝——ヴァースデーヴァ信仰とゴーパーラ信仰——が合流したものだとする見方が、学界では有力である。一人の神格の三つの相は、三つの来歴の痕跡かもしれない。
図像と象徴
もっとも普及した形はヴェーヌゴーパーラ、笛を吹く牛飼いである。三箇所で身をくねらせた三曲法(トリバンガ)で立ち、横笛を唇に当て、片足を交差させる。頭には孔雀の羽。傍らに牛が寄り、しばしばラーダーが並ぶ。この姿勢そのものが音楽への感応を造形にしている。
バーラ・クリシュナは幼児の姿で、バターの塊を握って這う。南インドの青銅像に佳作が多い。ゴーヴァルダナ・ダラは山を掲げる姿、パールタサーラティは戦車の上で手綱を執る御者の姿である。同じ神が、乳児から哲学者まで振れ幅をもって造形される例は多くない。
肌の色は問題を含む。名は「黒」を意味し、古い記述もそう言うが、絵画の伝統は一貫して深い青で描いてきた。この置き換えがいつどう起きたかは決着していない。
絵画では細密画の伝統が圧倒的である。メーワール、キシャンガル、カーングラーの各派が『ギータ・ゴーヴィンダ』と『バーガヴァタ・プラーナ』を繰り返し画題にした。ムガル宮廷でもヒンドゥーの叙事詩は写本として制作されており、本記事の主画像はその一例——1590年代の『ハリヴァンシャ』写本の挿絵(メトロポリタン美術館蔵、画家ミスキーンに帰される)で、ペルシア絵画の様式でクリシュナの奇跡が描かれている。
系譜と関係
父ヴァスデーヴァ、母デーヴァキー。養父母はナンダとヤショーダー。兄はバララーマ、妹はスバドラー。父の姉妹クンティーの子であるパーンダヴァ五兄弟は従兄弟にあたり、『マハーバーラタ』における彼の立場はこの血縁に発している。妻はルクミニーを筆頭に多数を数える。ラーダーは妻ではなく、多くの伝えでは他家に嫁いだ人妻とされる——バクティの詩がこの愛を至上のものとして歌うのは、それが社会の規範の外にあるからでもある。
ヴィシュヌとの関係は上述のとおり派によって向きが変わる。トリックスターの役割を担う神格が同時に最高神とされる例として、クリシュナは比較神話のうえでも珍しい位置にある。バターを盗む神が、宇宙の主でもあることに、この伝統はためらいを見せない。
文化的足跡
中世のバクティ運動は、この神を軸に回ったといってよい。ジャヤデーヴァ、スールダース、ミーラーバーイーがそれぞれの言語で歌い、祭式の知識も身分も持たない人々に信仰の道を開いた。ヴリンダーヴァンでは今日もラース・リーラーが演じられ、ジャンマーシュタミー(降誕祭)は全国の祭となっている。オリッサではジャガンナートの名でまったく異なる姿——手足をもたない木像——として祀られており、地方ごとに造形も祭祀も大きく異なることが、この信仰の広がりを物語る。
20世紀後半、この信仰は国際的な広がりをもった。日本ではゲームや漫画を通じて名を知る読者も多いが、作品ごとの造形は原典の伝承とは別のものである。
領分・別名
親・配偶者・子までを表示(全体はフル系図ページへ)。実線=主要伝承/点線=異伝・別系統。