メーティス
メティス · ミーティス · Metis
オーケアノスとテーテュースの娘で、ゼウスの最初の妻。知恵と策略を司り、アテーナーの母となったが、身重のままゼウスに呑み込まれた。
解説
概要
メーティス(Μῆτις / Metis)は、知恵・思慮・助言を司るギリシアの女神である。オーケアノスとテーテュースの娘、すなわちオーケアニスの一人であり、ゼウスの最初の妻にしてアテーナーの母にあたる。
その名が指す知恵は、抽象的な理性ではない。ギリシア語のメーティスは、機転・狡知・場に応じてうまくやる力を意味し、力ずくの強さ(ビアー)と対をなす語であった。オデュッセウスがこの資質の体現者とされ、アテーナイ人は自らの気質を示す語としてこれを誇った。前5世紀の哲学の時代に至って初めて、メーティスは深い思索の神格と解されるようになる。もっとも本来の語感は、プロメーテウスの企みにも通じる「魔術的な狡知」に近い。ホメーロスがゼウスに与える添え名メーティエタ(「知略に長けた者」)は、この女神を呑み込んだ結果として理解される。
神話・物語
『神統記』の伝えるところでは、クロノスが生まれた子を次々に呑み込んでいたとき、メーティスは従兄弟にあたるゼウスに嘔吐の薬を与えた。クロノスはこれを飲んで、まず身代わりの石を、続いてヘスティアー・デーメーテール・ヘーラー・ハーデース・ポセイドーンを、呑んだ順とは逆に吐き出した。ただしこの薬の話をメーティスに帰さず、ゼウス自身がクロノスの背を打って吐かせたとする伝えもある。
ティーターノマキアーに勝ったのち、ゼウスはメーティスを妻に迎えた。ところが、メーティスの産む娘は母に劣らず賢く、次に生まれる息子は父を凌いで王座を奪うだろうという予言がガイアとウーラノスから下された。ゼウスは妻を欺いて小さな姿に変えさせ、そのまま呑み込んだ。父を倒した者が同じ手口で子を封じたことになるが、決定的な違いがある。クロノスは生まれた子を呑んだのに対し、ゼウスは母ごと呑んだ。連鎖はここで断たれる。
呑み込まれた姿については、『神統記』の古註が伝える語(ピクラー、「苦い」)が文意に合わないため、古くから「蠅」あるいは「小さなもの」への校訂が試みられてきた。トマス・キートリーの指摘以来、この箇所は本文批判の問題として扱われている。アポロドーロスの版はさらに趣が異なり、メーティスはゼウスに追われて次々に姿を変えて逃げたが、ついに捕らえられて交わることを強いられたとする。ゼウスではなくキュクロープスのブロンテースをアテーナーの父とする異伝も伝わる。
呑まれた時すでにメーティスは身ごもっており、胎児はゼウスの内側で育った。母は娘のために衣と甲冑と楯と槍をこしらえ、娘が槍と楯を打ち合わせたためゼウスは激しい頭痛に襲われた。堪えかねたゼウスがリビュアのトリートーン河のほとりでヘーパイストスに頭を割らせると、武具を着けた成人の姿のアテーナーが躍り出た。斧で頭を割るというこの細部は『神統記』にはなく、ピンダロス以降の伝えである。以後もメーティスはゼウスの内から助言を送り続け、善悪を告げたという。知恵の神を体内に取り込むことで王が知恵そのものになる、という構図である。
系譜には別の系統もある。アクーシラーオスの宇宙開闢では、メーティスはエロースと並ぶ根源的な生成の力として据えられ、オルペウス教の伝えもこれに従う。プラトン『饗宴』は、豊かさの神ポロスをメーティスの子とする。ここではメーティスはエロースの祖母にあたることになる。
なお、姿を変える海の女神であり、父を凌ぐ息子を産むと予言された点で、テティスとの近さがしばしば論じられる。ローラ・スラトキンはこの重なりを『イーリアス』読解の鍵とした。ただし両者は別の神格であり、同じ型の物語が二度使われたと見るべきものである。
図像と象徴
図像をほとんど持たない神格である。呑み込まれて他者の内側にいる存在を絵に描くことの難しさが、そのまま作例の乏しさに現れている。
本項に掲げたのは、前550年から前525年頃のアッティカ黒絵式アンフォラ(ルーヴル美術館 F32、E群に帰される)で、アテーナー誕生の場面のうち、ゼウスの玉座の下に配された有翼の女神の部分である。この女神をメーティスと見る読みは古くからあるが、確定しているわけではなく、ルーヴルの記述も疑問符を付している。玉座の下という位置が「ゼウスの内にいる」ことの図像的な言い換えだとすれば説明はつくが、有翼の女神はイーリスやニーケーとも判別しがたい。掲載にあたっては、この同定が推定にとどまることを付言しておく。
系譜と関係
父オーケアノス、母テーテュース。オーケアニデスのなかでは、ステュクスやドーリスと同様に他の系譜の起点となる一人にあたる。夫ゼウス、娘アテーナー。『神統記』はゼウスの妻たちをメーティス、テミス、エウリュノメー、デーメーテール、ムネーモシュネー、レートー、そして最後にヘーラーの順に並べており、この女神は最初に置かれる。知恵の神のファセットのなかでは、書き記す知でも代価を払って得る知でもなく、切り抜けるための算段としての知に属する。
文化的足跡
マルセル・デティエンヌとジャン=ピエール・ヴェルナンは『メティス——ギリシア人の知恵』(1974年)で、この語を古代ギリシア人の思考様式を読み解く鍵概念として立てた。捕らえがたく状況に応じて形を変える知として、狩人・漁師・操舵手・政治家の技能を貫くものと論じたのである。神格の名が学術用語へ転じた例であり、以後は人類学や政治学でも用いられている。木星の第十六衛星メティス、小惑星帯の9番小惑星メティスにもその名が与えられている。
領分・別名
親・配偶者・子までを表示(全体はフル系図ページへ)。実線=主要伝承/点線=異伝・別系統。