テティス
テティース · テーティス · Thetis
ギリシア神話の海の女神でアキレウスの母。父より偉大な子を生む定めゆえに神々の求婚を退けられ、人間ペーレウスに嫁がされた。
解説
概要
テティス(Θέτις / Thetis)は、海神ネーレウスとドーリスの娘たち——ネーレーイス——の一人で、アキレウスの母である。ホメーロスとヘーシオドスは彼女を「銀の足のテティス」と呼ぶ。
古い海神の娘でありながら、オリュンポスの神々と密接に結びついている点が彼女の特徴である。ヘーラーに育てられ、ゼウスを危機から救い、ヘーパイストスとディオニューソスを匿った。窮した神を助ける者という役どころは、他の女神にほとんど例がない。
なお、テーテュース(Tethys)は別の女神であり、古代から混同されてきた。
神話・物語
『イーリアス』第1巻が伝えるところでは、かつてヘーラー、ポセイドーン、アテーナーがオリュンポスで反乱を起こしてゼウスを縛ったとき、ただ一人ゼウスの側に立ったのが彼女であった。ヘカトンケイルのブリアレオースを呼び寄せて神々を怯ませ、そのすきに縄を解いたという。生まれたばかりで海へ落とされたヘーパイストスを九年のあいだ海底に匿い、トラーキア王リュクールゴスに追われたディオニューソスを海で受け止めたのも彼女である。ゼウス・ヘーパイストス・ディオニューソスがのちにアキレウスへ好意を示すのは、この三つの恩による。
結婚の経緯は資料で割れる。ピンダロス『イストミア祝勝歌』では、ゼウスとポセイドーンが彼女を望んだが、テミスが「父より偉大な子を生む」と予言し、その子はゼウスの雷霆やポセイドーンの三叉戟を凌ぐ武器を振るうと告げた。予言者をプロメーテウスとする版(アイスキュロス『縛られたプロメーテウス』を踏まえたアポロドーロス、ヒュギーヌス)、プローテウスとする版(オウィディウス)もある。神々が彼女を諦めたのは恋の敗北ではなく、王権を奪う者の出現を避けるためであった。散逸叙事詩『キュプリア』では、トロイア戦争を起こすためにモーモスがこの結婚を進言したとされ、戦争そのものが目的として語られる。
ペーリオン山での婚礼には神々が列席し、贈り物を携えた。招かれなかった争いの女神エリスが投じた黄金の林檎がパリスの審判を招き、そこからトロイア戦争が起こる。彼女の結婚式が戦争の起点になっているという構造は、叙事詩全体の枠組みをなす。
生まれた子を不死にしようとした試みも伝わる。夜ごと火にかざして人間の部分を焼き、昼はアムブロシアーを塗ったが、それを見た夫に止められた。目的を絶たれた彼女は子と夫を捨てて海へ帰る。アキレウスの踵をつかんでステュクスに浸したという話は後代のもので、ホメーロスにはない。
以後も母として働き続ける。息子の願いをゼウスに取り次ぎ、ヘーパイストスに新しい武具を作らせ、ディオニューソスから黄金の骨壷を得た。息子の運命——短命と引き換えの栄光——を知りながら助けるという立場が、『イーリアス』における彼女の悲哀をなしている。
図像と象徴
古典期の陶画で最も多いのは、ペーレウスに組みつかれて獅子や蛇や炎に変身する場面である。変身する女神を描くにあたり、体の各所から獣の頭を生やすという解決が用いられた。プローテウスやキルケーの図像と同じ発想である。
もう一つの主題が、武具を運ぶ姿である。本ページの主画像は、前2世紀のギリシア原作を写したローマ期の大理石像(タソス産大理石、ローマ国立博物館マッシモ宮)で、幼いトリトンを伴う。近年の復元研究は、これをスコパス作と伝えられる「アキレウスに新しい武具を届けるテティス」の群像の一部とみている。
海獣にまたがって武具を運ぶ姿は、ローマ期の石棺にも繰り返し刻まれた。
系譜と関係
父ネーレウス、母ドーリス。ネーレーイスの一人。ケンタウロスのケイローンの娘とする異伝もある。夫ペーレウス、子アキレウス。
アルゴナウタイの航海では、ヘーラーに請われてアルゴー船をプランクタイの岩礁から守った。夫が乗り組んでいたためでもある。
文化的足跡
マグネーシア、ラコーニア、メッセニアで祀られたことが、ヘーロドトスとパウサニアースの記述から知られる。前7世紀のスパルタの詩人アルクマーンは彼女を主題とする詩を作り、残る断片から宇宙論的な内容であったと推測されている。海の女神が世界の生成を語る詩の主人公であったことになる。
なお、地球化学と地質学の「テティス海」は彼女ではなくテーテュースにちなむ。混同されやすい二柱の名は、近代の学術用語にも持ち込まれている。
領分・別名
親・配偶者・子までを表示(全体はフル系図ページへ)。実線=主要伝承/点線=異伝・別系統。