コーキュートス
コキュートス · コキュトス · Kokytos
冥界を流れる「嘆きの河」。号泣の声にちなむ名を持ち、ダンテ『神曲』では地獄最下層の凍った湖として描かれる。
解説
概要
コーキュートス(Κωκυτός / Cocytus)は、冥界を流れる河である。名は「嘆き」「号泣」を意味するコーキュオーに由来し、「嘆きの河」と訳される。アケローンに注ぐとされる。
冥界の河は通例、コーキュートス、ステュクス、プレゲトーン、レーテー、アケローンの五つに数えられる。ただしこの整理は後代のものであり、古い資料が五つを揃えて挙げるわけではない。
神話・物語
ホメーロス『オデュッセイア』第十歌が、この河の最も古い言及にあたる。キルケーはオデュッセウスに、死者を呼び出す場所への道を教える。ペリプレゲトーンとコーキュートスがアケローンへ注ぎ合う、その岩のもとで穴を掘り、供物を注げというのである。冥界へ下ることなく死者と語る儀礼が、この河の合流点で行われる。
コーキュートスはステュクスの支流であるとも伝えられる。ただし日本語の資料でしばしば見る「ステュクスの四支流」という整理は、冥界の河の名を後世に体系化したものであって、原典が一様にそう述べるわけではない。
葬礼を受けずに死んだ者の魂が、この河のほとりを百年さまようというウェルギリウス『アエネーイス』の記述もよく知られる。名の由来である嘆きの声は、渡ることを許されない者たちのものである。
図像と象徴
コーキュートスを名指した古代の作例は知られていない。冥界の河はいずれも、渡し守と小舟によってのみ示された。本項では主画像を置いていない。
図像が生まれるのは近世である。ダンテ『神曲』地獄篇の挿絵の伝統において、この河は独自の姿を与えられた。
関係する神格・退治した英雄
アケローンに注ぐとされ、ステュクスの支流とする伝えもある。ハーデースの領分に属し、カローンの渡しの場とも語られる。
文化的足跡
ダンテ『神曲』地獄篇において、コーキュートスは地獄の最下層、第九圏に置かれる。そこでは河ではなく、凍りついた湖として描かれる。裏切りを犯した者たちが、その背信の度合いに応じて首まで、あるいは全身を氷に閉ざされる。中心にはルチフェル(ルシファー)が腰まで氷に浸かり、三つの顔の口でユダ、ブルートゥス、カッシウスを噛み砕いている。その翼が起こす風が、この湖を凍らせ続けているという設定である。
地獄の底が炎ではなく氷であるというダンテの構想は、この河の名から導かれたものではない。だが「嘆き」の名を持つ流れが凍って動かなくなるという発想は、悔悟の不可能な罪という主題とよく響き合っている。
ミルトン『失楽園』第二巻は「その物悲しい流れのあたりから聞こえる号泣の声にちなんで名づけられたコキュトス河」と歌う。シェイクスピア『タイタス・アンドロニカス』にも名が現れる。