アキレウス
アキレス · アヒレウス · Akhilleus
ギリシア軍最強の戦士。母テティスと人間ペーレウスの子で、怒りと友の死をめぐる『イーリアス』の主人公である。
解説
概要
アキレウス(Ἀχιλλεύς / Akhilleus)は、女神テティスと人間ペーレウスの子で、トロイア戦争におけるギリシア軍最強の戦士である。『イーリアス』は彼の怒りを主題として始まり、その怒りが解ける場面で終わる。
彼を規定するのは選択である。長く平穏に生きるか、若く死んで不滅の名を得るか。この二者択一を知りながら後者を選ぶという設定は、ギリシアの英雄観そのものを一人の人物に凝縮したものであり、オデュッセウスの「生きて帰る」型と正面から対をなす。
神話・物語
母テティスは息子を不死にしようと試みた。アポロドーロスなどが伝えるのは、夜ごと火にかざして人間の部分を焼き払おうとし、夫に見つかって中断されたという版である。冥界の河ステュクスに浸したが踵だけが濡れなかったという有名な話は、後1世紀のスタティウス『アキレイス』以降に現れるもので、ホメーロスにはない。『イーリアス』の彼はふつうに傷を負い、血を流す。踵の急所という着想が古い層に属さないことは、この人物を読むうえで押さえておくべき点である。
ケンタウロスのケイローンに養われ、狩猟と医術と竪琴を学んだ。出征を避けさせようとした母によってスキューロス島で女装して隠されたが、オデュッセウスが武具を並べて見せる策で正体を露わす。島の王女デーイダメイアとの子がネオプトレモスである。
『イーリアス』の筋は次のように進む。総大将アガメムノーンに分捕り女ブリーセーイスを奪われた彼は戦線を離れ、母を介してゼウスにギリシア軍の敗北を願う。窮したアカイア勢の求めにも応じなかったが、彼の武具を借りて出た友パトロクロスがヘクトールに討たれると、怒りの対象が味方から敵へ移る。ヘーパイストスの鍛えた新しい武具を得て戦場に戻り、ヘクトールを殺し、その遺体を戦車に繋いで引き回した。第24巻、夜ひとり陣に来たトロイア王プリアモスに乞われ、彼は遺体を返す。二人が向かい合って泣く場面で叙事詩は閉じられる。
死は『イーリアス』の外にある。散逸叙事詩『アイティオピス』では、アマゾーンの女王ペンテシレイアとエチオピア王メムノーンを討ったのち、アポローンに導かれたパリスの矢に倒れる。矢が踵に当たったとする筋は後代の付加である。武具は大アイアースとオデュッセウスが争い、弁論に敗れたアイアースは自ら死んだ。
図像と象徴
古代美術で最も多く描かれた英雄の一人である。武具を身につける場面、ペンテシレイアを討つ場面、ヘクトールの遺体をめぐる場面、そしてアイアースと盤上遊戯に興じる場面が繰り返された。
本ページの主画像は前500年頃のアッティカ赤絵式キュリクス(ソシアスの銘、ウルチ出土、ベルリン古代美術館 F2278)で、矢傷を受けたパトロクロスの腕に包帯を巻く彼を銘つきで描く。戦う姿ではなく友を手当てする姿を選んだこの作例は、『イーリアス』の主題がどこにあるかを的確に示している。
系譜と関係
父はプティーアー王ペーレウス、母は海の女神テティス。二人の婚礼にオリュンポスの神々が列席し、招かれなかったエリスが投じた黄金の林檎がパリスの審判の発端となった。彼の存在そのものが戦争の由来と結びついている。
子はネオプトレモス。トロイア陥落の場面に現れ、プリアモスを祭壇で殺したとされる。
文化的足跡
「アキレス腱」の語は、後1世紀に踵の急所の話が定着したのち、一六九三年にオランダの解剖学者フェルヘイエンがこの腱を chorda Achillis と呼んだことに由来する。「唯一の弱点」を指す「アキレス腱」の比喩も同じ系統である。
黒海沿岸では実際に神として祀られた。レウケー島(蛇島)の神域は前6世紀から知られ、アキレウス・ポンタルケース(黒海の支配者)の称号で船乗りの守護神とされた。叙事詩の英雄が広域の海洋神格へ転じた例である。