アレース
アレス · マールス(ローマ)
ギリシア神話の軍神。戦場の狂乱と殺戮そのものを担う。神話では負けるか辱められるかの役ばかりだが、それはこの神が戦争の栄光ではなく代価の側を引き受けたからである。
解説
概要
アレース(Ἄρης / Ares)は、ギリシア神話の軍神である。オリュンポス十二神の一柱で、ゼウスとヘーラーの子。同じ戦を司りながら、姉アテーナーが規律と戦略を担うのに対し、アレースに割り当てられたのは戦場の狂乱と殺戮そのものであった。ギリシア人はこの神を讃えるより畏れ、しばしば疎んじた。
語源は定まらない。イオーニア方言の ἀρή(破滅・呪い)に結びつける説が伝統的で、ヴァルター・ブルケルトは「戦の喧騒」を指す古い抽象名詞と見る。先ギリシア語起源を説く者もいる。確かなのは名の古さで、ミュケーナイ期の線文字B文書にすでに a-re の形が現れる。それでもギリシア人は、この神の獰猛さを蛮地トラーキア由来のものとして語り続けた。名の古さと、外から来た神という語り口とは噛み合っていない。
神話・物語
『イーリアス』のアレースには定まった陣営がない。アカイア側で戦うとアテーナーとヘーラーに約束しながら、アプロディーテーに説かれてトロイア側へ回る。第5歌では、アテーナーが穂先を導いたディオメーデースの槍に貫かれ、九千とも一万ともつかぬ数の兵が上げるほどの叫びとともにオリュンポスへ逃げ帰る。迎えたゼウスは、お前は神々のうちで最も憎いと言い放つ。第21歌では、アテーナーの投げた石に再び倒される。
同じ第5歌でディオーネーが娘に聞かせる一節には、アローアダイの兄弟オートスとエピアルテースがアレースを青銅の壺に十三か月閉じ込めた話がある。伝えるのはこの一節だけである。『オデュッセイア』第8歌でデーモドコスが歌うのは、アプロディーテーとの密通である。ヘーパイストスは目に見えぬほど細い網を鍛えて二人を寝台に捕らえ、神々を呼び集めて笑いものにした。登場するたび、この神は負けるか辱められるかしている。
ポセイドーンの子ハリロティオスが娘アルキッペーを犯したとき、アレースはこれを撲殺した。神々の法廷にかけられ、情状を認められて無罪となる。この裁きの場がアレオパゴスである。テーバイ建国譚では、カドモスが斃した泉の竜がアレースの子とされ、償いに八年の奉仕と娘ハルモニアーとの婚姻が課された。
『ホメーロス風讃歌』第8番「アレース讃歌」は、まったく別の神を歌う。掟の女神テミスを助け、人間に光と勇気を与え、勝利と平和をもたらす天体の神である。ただしこの一篇が集成のなかで際立って新しいことは一致して認められている。M・L・ウェストは5世紀の新プラトン主義者プロクロスの作とし、これを退けて前3世紀まで遡らせる見方もある。年代も作者も割れたままだが、少なくともホメーロスと並べて読んではならない。
図像と象徴
持物は兜・楯・槍、聖鳥は雄鶏。古拙期の陶器画では髭をたくわえた壮年の武人として、古典期以降は兜だけを着けた裸形の若者として描かれる。
だが、アレースの図像でまず知るべきは確実な像がほとんどないという事実である。祭祀も造形もギリシアでは稀で、とりわけ彫刻に乏しい。ルーヴルの「ボルゲーゼのアレース」(後1〜2世紀のローマ期作)は最も名高い一体だが、同定は定まっていない。左脚首の環をヴィンケルマンらは鎖の名残と読んだが、テーセウス像、あるいは踵を弱点とするアキレウス像とする研究者もいる。パウサニアースの伝えるアルカメネース作に遡らせる通説にも、神殿がアゴラへ移されたのがアウグストゥス期だという年代の難がある。確かな手がかりは大理石像よりも、場面から同定できる陶器画のほうにある。
象徴として際立つのは縛られたアレースである。パウサニアースは、スパルタのエニューアリオス神殿にあった鎖につながれた古拙期の像を記録し、戦と勝利の霊を市外へ出さぬためだと説明した。ヘレニズム期の神託は、海賊に脅かされた小アジア南岸の諸都市に、人を殺すアレースの像を立て、毎年これを鉄の枷で縛り、裁判にかけて犠牲を捧げよと命じている。そうすれば神は穏やかになり、敵を追い払い、豊かさをもたらすという。リュキアとピシディアではアレース・カルポドテース(実りを与える者)と呼ばれた。軍神の像が囚人の姿で立つ——ギリシア人がこの神をどう扱ったかは、この一点によく出ている。
系譜と関係
『神統記』では、ヘーラーがゼウスとの間にアレース、エイレイテュイア、ヘーベーを産んだとされる。オウィディウスの伝える「ユーノーが花の力で単独に孕んだ」という誕生譚はマールスのものであり、アレースの話ではない。アイスキュロス『救いを求める女たち』の古注には、ナイルの水を飲んだゼウスが単独で産んだとする異伝もある。
アプロディーテーとの間にポボス(敗走)、デイモス(恐慌)、ハルモニアー(調和)をもうけた。エロースを加える伝えもあるが、これは本来関わりのなかったアプロディーテーとエロースを結びつけるための後代の構成である。従者はエリスとエニューオー。エニューアリオスは、アレースの添え名とされることも、同じ町に別の祭祀をもつ別の神とされることもあり、ブルケルトは「ほとんど双子」と呼んだ。
ローマのマールスとはインテルプレタティオ・ロマーナによって重ねられたが、同じ神ではない。マールスは本来農耕の神であり、ロームルスの父、国家の守護者としてユーピテルに次ぐ地位を占めた。疎まれた神と敬われた神である。ヘロドトスがトラーキア人やスキュタイ人の神を「アレース」と呼んだのもインテルプレタティオ・グラエカである。スキュタイの「アレース」の神体は柴を積んだ祭壇に立てた鉄剣で、そこに戦争捕虜の血が注がれたという。
文化的足跡
ギリシア本土で冷遇された神も、小アジアでは事情を異にする。南部の29の遺跡と70種を超える貨幣に信仰が確認され、託宣を下す神としても崇められた。
ルネサンス以降の西洋美術に現れる「軍神」は、ほとんどがアレースではなくマールスである。血に飢えた神は退場し、男らしい勇気の寓意に置き換えられた。アテーナイのアレース神殿そのものが、後2年にマールス・ウルトル(復讐者マールス)へ捧げ直されている。
なお、スパルタがアレースに人身供犠を捧げたという記述は、数世紀にわたって繰り返された誤りである。ヘカトンポニアは、敵を百人斃した戦士なら誰でも捧げられるゼウスへの獣の犠牲であった。天文の分野には名が残る。赤い恒星アンタレスは「アレースに対抗するもの」の意で、火星の二衛星フォボスとダイモスはこの神の子の名を負う。現代の日本ではゲームや漫画を通じて名に触れる読者も多いが、そこでの造形は原典のアレースとは別のものである。
領分・別名
親・配偶者・子までを表示(全体はフル系図ページへ)。実線=主要伝承/点線=異伝・別系統。