カドモス
カドモス · カドゥモス · Kadmos
フェニキアからギリシアへ渡り、竜を退治してテーバイを建てた英雄。ギリシアに文字をもたらした者とも伝えられ、最後は蛇に姿を変えた。
解説
概要
カドモス(Κάδμος / Kadmos)は、フェニキアのテュロス王アゲーノールの子で、テーバイの建設者である。妹エウローペーを探して東方から渡来し、大蛇を討ってボイオーティアに都市を築いた。妻はアレースとアプロディーテーの娘ハルモニアーである。
ギリシア人は彼を、都市と文字という二つのものを外から持ち込んだ人物として記憶した。ヘーロドトスはフェニキア文字の伝来を彼の功績とし、その字母を「カドモス文字」と呼んでいる。ギリシア神話の建設者譚のなかで、外来性がこれほど正面から語られる例は多くない。
神話・物語
ゼウスに妹エウローペーを攫われたとき、父アゲーノールは息子たちに、見つけるまで帰るなと命じて捜索に出した。ロドス、テーラを経てトラーキアに至り、母テーレパッサを失った彼はデルポイに伺いを立てる。神託は捜索を諦めよと告げ、一頭の牝牛の後を追い、その牛が倒れた地に都市を築けと命じた。
白い満月の模様のある牝牛を買い、一度も休ませずに追い立てた末、牛は倒れた。アテーナーの像を建て、犠牲を捧げるために配下を泉へ水汲みにやると、そこはアレースの泉で、番をしていた大蛇が彼らを殺した。カドモスは岩で大蛇の頭を砕く。
現れたアテーナーの指示で牙を地に播くと、武装した男たちが生え出た。彼が投げ込んだ石をきっかけに男たちは同士討ちを始め、五人だけが残って彼に従う。これがスパルトイ——播かれた者たち——であり、テーバイの有力氏族の祖となった。大蛇殺しの償いとして、彼はアレースのもとで八年間の奉仕を務めた。
償いを終えた彼はボイオーティアの地を与えられ、自らの名にちなんでカドメイアと呼んだ。のちのテーバイである。この地でハルモニアーと婚礼を挙げた。
しかし子孫は次々に倒れる。娘セメレーはゼウスの本当の姿を望んで雷火に焼かれ、娘イーノーはヘーラーの怒りで狂って我が子とともに海へ身を投げた。娘アウトノエーの子アクタイオーンはアルテミスの水浴を見て猟犬に食い殺され、娘アガウエーの子ペンテウスはディオニューソスを退けて、狂気に陥った母たちの手で引き裂かれる。都市を建てた者の家が、都市の内側から壊れていく。
老いた彼は、アレースの怒りがなお解けていないと知って王位を退き、ハルモニアーとともにイリュリアのエンケレイス人の地へ移った。ディオニューソスの神託により二人はその軍の指導者に立てられ、勝利する。最後に二人は蛇に姿を変え、ゼウスによってエーリュシオンに住むことを許された。アレースが二人を蛇に変えたのだとする説もある。竜を殺した男が竜になって終わるという結び方には、償いが完結しないという含みが読み取れる。
図像と象徴
古代美術が繰り返し描いたのは、水瓶を手にした彼が泉の大蛇と対峙する場面である。本ページの主画像は前350〜340年頃のパエストゥム赤絵式カリュクス・クラーテール(絵師ピュトーン、ルーヴル美術館 N3157)で、木に巻きついた大蛇に石を構える姿を描く。竜退治の図像としてはペルセウスやベレロポーンのそれと並ぶ主題であった。
歯を播く場面や、地から生え出るスパルトイも壺絵に見える。ローマ期の帝政期にはテュロスの貨幣に彼が刻まれ、都市が自らの創建者として彼を掲げていたことがわかる。ギリシア側とフェニキア側の双方が、同じ人物を自分たちの起源に置いた例である。
系譜と関係
父アゲーノール、母テーレパッサ(アルギオペーとも)。兄弟にキリクス、ポイニクス、妹エウローペー。異父兄弟にタソス。
妻ハルモニアーとの子はアウトノエー、イーノー、セメレー、アガウエーの四姉妹と、末子ポリュドーロス。晩年にイリュリオスをもうけ、この子がイリュリア人の名祖となった。
ポリュドーロスの子ラブダコス、その子ラーイオス、その子オイディプースと続くのがテーバイ王家の直系である。一方、スパルトイのエキーオーンとアガウエーの血からペンテウス、そしてイオカステーとクレオーンの家が出る。テーバイ悲劇の登場人物はほぼ全員が彼の子孫にあたる。
文化的足跡
ヘーロドトスの伝えるフェニキア文字の伝来譚は、ギリシア人が自国の文字を外来と認識していた証言として、文字史の議論で必ず引かれる。彼を実在の東方系移住者に還元する解釈は19世紀以来くり返されてきたが、確証はない。
青銅の発見者とする伝えもあり、名をセム語の「東」(qdm)に結びつける語源説も古くからある。ただし言語学的な裏づけは弱く、ギリシア語の「秩序づける」に近い語から説明する立場もある。
領分・別名
親・配偶者・子までを表示(全体はフル系図ページへ)。実線=主要伝承/点線=異伝・別系統。