ヤマ
閻魔 · 閻魔大王 · 焔摩天
インド神話における最初の死者にして、死者の国の王。人が初めて歩む死出の道を見いだした者とされ、のちに死者を裁く神へ転じた。仏教とともに東へ渡り、閻魔となった。
解説
概要
ヤマ(यम / Yama)は、インド神話における死者の王である。名は「双子」を意味し、妹ヤミーと対をなす。ヴェーダのヤマは、人として最初に死に、死者が進むべき道を見いだした者であり、その功によって死者の国の主となった。恐るべき死神ではなく、先に逝った者たちを迎える祖霊の王である。時代が下るとその性格は変わり、ローカパーラの一柱として南方を守り、生前の行いを量って賞罰を下す審判者となった。仏教とともに東アジアへ渡ったのはこの後者の相であり、日本の閻魔はここから出ている。
神話・物語
『リグ・ヴェーダ』10巻10歌は、ヤマとヤミーの対話という異例の形式をとる。ヤミーは子孫を残すために結ばれようと迫り、ヤマは兄妹の交わりがミトラとヴァルナの定めた天則に背くとして拒む。讃歌は決着をつけないまま終わる。訳者の辻直四郎は、この対話体そのものが、近親相姦という主題を正面から語ることを避けた工夫だと指摘している。
ヤマがなぜ死者の王となったかについて、ヴェーダは端的に説く。ヤマは人として最初に死を選び、死者の行く道を切り開いた。最初に赴いた者が、そこの主となる。黒ヤジュル・ヴェーダの『マイトラーヤニー・サンヒター』には、その死をめぐる昼夜の起源譚が伝わる。当時はまだ夜がなく、嘆くヤミーは慰められるたび「ヤマは今日死んだ」と言っては泣いた。神々は「今日」を「昨日」に変えるために夜を作り、ヤミーはようやく立ち直ったという。
初期のヤマの国は天上にあり、善く生きた者が長寿を全うして祖霊と一つになる楽園として描かれた。それが後代には地下へ移り、罰の場としての性格を帯びる。『マハーバーラタ』のヤマは、法(ダルマ)を体現するダルマデーヴァと重ね合わされてユディシュティラの父とされ、鶴に化けた夜叉として謎を問い、その答えに満足して死んだ弟たちを蘇らせる。同じ叙事詩には、夫サティヤヴァーンの魂を連れ去ろうとしたヤマが、妻サーヴィトリーの言葉に説き伏せられて夫を返す話も収められている。裁く神でありながら、言葉によって翻意する神でもある。
なお、ヤマとダルマデーヴァを同一とみるか別神とみるかは古来割れている。別神とする立場は、ヤマが太陽神の子であるのに対しダルマデーヴァはブラフマーの胸から生まれること、両者の妻子の伝承が一致しないことを根拠に挙げる。
図像と象徴
プラーナ文献のヤマは、雨雲の色の肌に四臂、牙をむき、炎の環に囲まれた憤怒の相で説かれる。手には命を捉える羂索(パーシャ)と、棍棒あるいは剣、そして杖(ダンダ)を執る。乗物は水牛である。この水牛は、ヒンドゥーからチベット仏教に至るまでヤマを見分ける最も確実な目印となった。ヴァルナのマカラ、インドラの白象と同じく、乗物が神格の名札として働く体系である。現代インドの絵画では肌を青く塗るが、本来は黒とされる。
伴うのは二匹の犬である。牝犬サラマーの子とされる四つ目の斑犬が、死にゆく者を追い、冥途の道を見張る。犬を冥界に配する発想はギリシアのケルベロス、エジプトのアヌビスにも見え、魂の導き手の図像に繰り返し現れるが、これは共通の起源というより、埋葬地に集まる動物という同じ観察が同じ連想を独立に生んだと考えるほうがよい。
東アジアに渡ると図像は一変する。中国では唐代の官人風の道服をまとい、笏を持って帳簿を繰る裁判官として描かれるようになった。裁きが官僚制の比喩で語られるのは、官僚制を備えた社会である。日本の閻魔像には、亡者の生前の行いをすべて映す浄玻璃鏡と、司録・司命という二人の書記が添えられる。その庁で亡者を責める獄卒が、牛頭・馬頭をはじめとする鬼である。チベット仏教ではまた別で、水牛の上で明妃と相対し、三叉槍と髑髏杯を執る忿怒尊として表される。
系譜と関係
父は太陽神ヴィヴァスヴァット、後代の文献ではスーリヤ、母はサラニュー(サンジュニャー)である。妹にヤミー、兄弟に人類の祖マヌを置き、異母兄弟に土星神シャニを数える文献もある。妻の名はドゥムールナー、ウルミラー、シヤーマラーなど、やはり伝承ごとに割れる。
『アヴェスター』の聖王イマ(ペルシア語ではジャムシード)とは、名も父の名(ヴィーヴァンフワント/ヴィヴァスヴァット)も対応する同源の神格である。北欧の原初の巨人ユミルも、印欧語で「双子」を意味する語根に遡る同源とみる説が有力で、最初の存在の死が世界あるいは死者の国を成り立たせるという型を共有する。
文化的足跡
仏教はヤマを二つの方向に受け継いだ。ひとつは十二天の焔摩天として南方を守る天部であり、もうひとつは地獄を主宰する閻魔である。中国では閻羅王と呼ばれて道教の泰山府君と並ぶ冥界の王とされ、晩唐の偽経『預修十王生七経』によって十王信仰に組み込まれ、第五の王として三十五日の審理を受け持つことになった。日本では鎌倉初期の『地蔵十王経』が閻魔の本地を地蔵菩薩と定め、裁く者と救う者とが一つの尊格の表裏として結ばれた。
京都府大山崎町の宝積寺には、閻魔と司録・司命が居並ぶ地獄の法廷を再現した鎌倉時代の木像が伝わり、重要文化財に指定されている。教師が成績を記す帳面を「閻魔帳」と呼ぶ言い回しも、この法廷の記録簿からの連想である。現代の創作作品にも閻魔はしばしば登場するが、その多くは中国・日本で成立した裁判官としての相であり、祖霊を迎えるヴェーダの王としての姿が扱われることはまれである。