地蔵菩薩
地蔵 · お地蔵さん · 地藏王菩薩
釈迦の入滅から弥勒の出現までの、仏のいない時代を託された菩薩。六道すべてに身を現して衆生を救うと誓い、日本では子どもの守り神、道端の石仏として親しまれた。
解説
概要
地蔵菩薩(क्षितिगर्भ / Kṣitigarbha)は、大乗仏教の菩薩の一尊である。梵名のクシティは大地、ガルバは胎を意味し、「大地を蔵するもの」の意で地蔵と漢訳された。釈迦の入滅から弥勒菩薩が未来仏として世に出るまでの、仏のいない長い時代を託され、六道のすべてに身を現して衆生を救うと誓った菩薩とされる(六道能化)。空を表す虚空蔵菩薩と対をなす。地獄にまで降りて苦を代わりに受けるというその性格が、日本において群を抜いた民間信仰を生んだ。
神話・物語
『地蔵菩薩本願経』は、地蔵の前生を二人の王の物語として語る。ともに慈悲深い王のうち、一人は自ら先に仏となってから人を救おうと考えて一切智成就如来となり、もう一人は先にすべての人を渡してから自らも悟ろうと願った。後者が地蔵である。救う順序をめぐるこの選択に、尊格の性格が集約されている。
中国では、九華山に住した新羅出身の僧・地蔵(金喬覚、696〜794年)が地蔵菩薩の化身と信じられ、その地は五台山(文殊菩薩)・峨眉山(普賢菩薩)・普陀山(観音菩薩)と並ぶ四大名山の一つとなった。また偽経『預修十王生七経』を通じて道教の十王と結びつき、冥界を司る尊格として位置づけられた。
日本では、平安時代に浄土信仰が広まるにつれ、地獄における救済者としての相が前面に出る。11世紀の『地蔵菩薩霊験記』以降、往生できない者は必ず地獄へ堕ちるという観念が強まり、その苦を代わって受ける「地蔵代受苦」の信仰が育った。鎌倉初期には『仏説地蔵菩薩発心因縁十王経』(地蔵十王経)が成立し、閻魔王の本地を地蔵と定める。裁く者と救う者を同一の尊格の表裏とするこの説が、日本人の地獄観を長く枠づけた。
図像と象徴
地蔵の像容は、菩薩としては異例である。宝冠も瓔珞も付けず、剃髪した僧形(声聞形・比丘形)で衲衣をまとう。左手に如意宝珠、右手に錫杖を執る形が最も多く、手を与願印・施無畏印に結ぶ像、経巻を持つ像、子を抱く像もある。錫杖は地獄の門を打ち開く道具、宝珠は闇を照らす光として説明される。装身具を捨てた姿が、そのまま歩いて人のもとへ来る尊格であることを示している。
ただし密教では扱いが異なる。胎蔵曼荼羅地蔵院の主尊としては、髪を結い上げ装身具を着けた通常の菩薩形に表され、右手に宝珠、左手に宝珠を頂く幢を持つ。三昧耶形は蓮華上の宝珠幢、種字はハ(ह)である。同じ尊格が、民間信仰の場と密教の儀軌とでほとんど別の姿をとる。
墓地や辻に六体を並べる六地蔵は、六道の一つずつを受け持たせたものである。その名称と持物は文献によって大きく異なり、『覚禅鈔』は大定智悲地蔵以下の六名を挙げ、『地蔵十王経』は金剛願地蔵以下の別の六名を立てる。甲冑をまとい馬に乗る勝軍地蔵という異形もあり、愛宕権現の本地仏として武家の信仰を集めた。
系譜と関係
起源については、バラモン教の大地の女神プリティヴィー(地天)を仏教が取り込んだものとする説が広く唱えられている。ただし成立過程を直接に示す資料は乏しく、推定の域を出ない。所依の経典は『地蔵菩薩本願経』『大乗大集地蔵十輪経』『占察善悪業報経』の地蔵三経とされるが、末尾の一経については偽経とみる説が有力である。
日本の本地垂迹のもとでは、愛宕神や春日大社の天児屋根命が地蔵の垂迹とされた。民俗学者の柳田國男は、勝軍地蔵の「勝軍」を塞の神・道祖神を指すシャグジの転訛とみて、地蔵の境界神的な性格に由来を求めている。歴史学者の黒田智はこれに加え、平安京の将軍塚など王城の境を鎮める「将軍」の名との結びつきを指摘する。村境や辻に地蔵が立つのは、この道祖神との習合による。
文化的足跡
日本の地蔵信仰の広がりは、名称の多さに表れている。とげぬき地蔵、子育地蔵、子安地蔵、延命地蔵、雨降地蔵など、地域ごとの願いに応じた「何々地蔵」は百を超え、笠地蔵やしばられ地蔵といった説話も各地に残る。
子どもの守護者としての相を決定づけたのは、賽の河原の観念である。親に先立って死んだ子が積む石の塔を鬼が崩し、そこへ地蔵が現れて袈裟の内に抱くという情景は、仏教歌謡「西院河原地蔵和讃」を通じて広く知られた。関西の地蔵盆が子ども中心の行事であるのも、この系譜に連なる。
作例は平安から鎌倉にかけて数多く、法隆寺の平安前期像、快慶作と伝える東大寺公慶堂像、運慶作と推定される六波羅蜜寺像などが知られる。恐山の菩提寺のように、地蔵菩薩を本尊とする寺院も各地にある。