アゲーノール
アゲノル · アゲーノル · Agenor
フェニキアのテュロス王。娘エウローペーを攫われ、息子たちに探索を命じて帰ることを禁じた。
解説
概要
アゲーノール(Ἀγήνωρ / Agēnōr)は、フェニキアのテュロスの王である。ポセイドーンとリビュエーの子で、ダナオスとアイギュプトスの父ベーロスと双子の兄弟にあたる。
彼自身に固有の物語はほとんどない。役割は一つの命令に尽きる——娘エウローペーを見つけるまで帰るな、と息子たちに告げること。この命令が息子たちを地中海各地へ散らし、テーバイをはじめとする都市の建国譚を生んだ。
なお、ギリシア神話にはこの名の人物が多い。アルゴスの古王、トロイアの武将アンテーノールの子、アルクマイオーンを殺したペーゲウスの子などがおり、いずれも別人である。名が「勇ましい者」を意味する普通名詞に近いことが、この重複の背景にある。
神話・物語
牡牛に化けたゼウスが娘を攫うと、彼は息子カドモス、キリクス、ポイニクス、タソスに探索を命じ、見つけられなければ戻るなと言い渡した。妻テーレパッサも捜索に加わったと伝えられる。
誰も娘を見つけることはできなかった。帰国を禁じられた息子たちは、それぞれ行き着いた土地に留まる。カドモスはデルポイの神託に従ってボイオーティアにテーバイを建て、キリクスは小アジアのキリキアに、ポイニクスはフェニキアに、タソスはタソス島に王国を得た。捜索の失敗がそのまま植民の物語に転化している。
この構造は、ギリシア人が地中海各地の都市の起源を語るときに用いた型の一つである。東方の王が発した一つの命令から、西方の複数の都市が生じるという形をとる。ヘーロドトスがフェニキア人カドモスによる文字の伝来を記したこととあわせて、ギリシア人が自らの起源の一部を東方に置いていたことを示す。
図像と象徴
彼を名指しできる古代の作例は知られていない。命令を発するだけの人物であり、絵にすべき動作を持たない。娘の略取を描く無数の作例のなかにも、父の姿は現れない。本ページに主画像を置いていないのはこのためである。
系譜と関係
父ポセイドーン、母リビュエー——イーオーの子エパポスの娘である。したがって彼の家系はアルゴスに遡り、エジプトとフェニキアを経てふたたびギリシアへ戻ることになる。双子の兄弟ベーロスの子がダナオスとアイギュプトスであり、ダナイデスの物語と彼の家は同じ根から分かれている。
妻テーレパッサ(アルギオペーとも)との間に、カドモス、キリクス、ポイニクス、タソス、エウローペー。
文化的足跡
彼の名を負う「アゲーノールの裔(アゲノリデース)」は、カドモスやその子孫を指す語として詩に用いられた。オウィディウス『変身物語』はテーバイの一族をこの呼称で呼んでおり、ペンテウスやアクタイオーンの悲劇が「アゲーノールの家の物語」として括られている。事績を持たない王の名が、一族の総称として残った例である。