アガウエー
アガウエ · アガーウェー · Agaue
カドモスの娘でペンテウスの母。ディオニューソスの狂気に取り憑かれ、我が子を獣と見て素手で引き裂いた。
解説
概要
アガウエー(Ἀγαύη / Agauē)は、テーバイの建設者カドモスとハルモニアーの娘で、スパルトイの一人エキーオーンの妻、王ペンテウスの母である。
彼女の名で語られるのは一つの場面だけである。狂気のさなかに我が子を獣と見て引き裂き、正気に戻ってそれを知る。加害者でありながら被害者でもあるという位置は、ギリシア悲劇のなかでも際立って苛烈な造形にあたる。
神話・物語
妹セメレーがゼウスと交わったという話を、彼女は姉妹たちとともに信じなかった。雷に打たれて死んだのは偽りの報いだと言いふらしたのである。テーバイに現れたディオニューソスが最初に狂気を送ったのは、この三人であった。
正気を失った彼女はイーノー、アウトノエーとともにマイナデスを率いてキタイローン山へ去る。祭儀を覗きに来た息子ペンテウスを、神は女たちにけしかけた。木から落ちた彼に真っ先に飛びかかったのが母である。彼女は獅子を仕留めたと信じ、その首をテュルソスの杖に刺してテーバイへ凱旋した。
エウリピデス『バッコスの信女』の終盤は、彼女が正気を取り戻していく過程を丁寧に追う。父カドモスが問いを重ね、彼女がようやく手にしているものの正体に気づく場面は、ギリシア悲劇でも屈指の残酷さをもって書かれている。
正気に返った彼女はテーバイを去り、イリュリアに赴いてリュコテルセース王の妃となった。のちに父カドモスがエンケレイス人を率いてイリュリアを攻めると知ると、彼女は夫リュコテルセースを殺して国を父に献上したという。息子を殺し、次いで夫を殺す。二度とも肉親のためであった点が、この人物の輪郭をなしている。
図像と象徴
彼女を独立した主題とする古代の作例は知られていない。彼女が現れるのは常にペンテウスの死の場面であり、画面の主役は引き裂かれる側である。本ページに主画像を置いていないのはこのためである。
ただし図像の側にも彼女に固有の特徴がある。ペンテウスの死を描く陶画では、彼女の顔が正面を向いて描かれることがある。古典期の陶画で正面顔はほとんど用いられず、狂気や常軌を逸した状態を示す記号として限定的に使われた技法であった。
ローマ期の壁画や石棺では、息子の首を掲げる姿が独立した図像として現れる。エウリピデスの上演を経て、凱旋する母という場面が単独で成立するようになった過程がうかがえる。
系譜と関係
父カドモス、母ハルモニアー。姉妹にアウトノエー、セメレー、イーノー、弟にポリュドーロス。夫はスパルトイのエキーオーン、子はペンテウス。
夫の血筋によって、彼女の子は土から生えた戦士の系統に属する。テーバイの二つの起源が彼女の婚姻で結ばれ、その子が神を拒んで滅びるという構成になっている。
なお、ネーレーイスの一人アガウエーと、ダナオスの娘の一人アガウエーは同名の別人である。
文化的足跡
『バッコスの信女』の終幕は、伝承の過程で一部が失われており、彼女が息子の遺体を集めて嘆く場面は断片と後代の引用からしか復元できない。この欠落があるために、作品の結末をどう読むかは今日も定まっていない。
近現代の演劇は彼女を主役に据えることが多い。加害と被害が同一人物のうちで重なるという構造が、二〇世紀以降の関心と結びついたためとみられる。