イーノー
イノ · レウコテアー · レウコトエー
カドモスの娘で、幼いディオニューソスを育てた。狂気のうちに我が子を抱いて海へ身を投げ、海の女神レウコテアーとなった。
解説
概要
イーノー(Ἰνώ / Īnō)は、テーバイの建設者カドモスとハルモニアーの娘で、ボイオーティア王アタマースの後妻である。死後に神格化され、海の女神レウコテアー——「白い女神」の意——として祀られた。
人間として悲惨な最期を遂げ、そのまま航海者を助ける神になるという経路をたどる。カドモスの四人の娘のうち、破滅の先に祭祀を得たのは彼女だけである。
神話・物語
アタマースには先妻ネペレーとの間にプリクソスとヘレーの兄妹があった。継子を憎んだ彼女は、土地の女たちに種麦をひそかに焙らせて作物が実らないようにし、原因を問う使者を買収して、プリクソスを犠牲に捧げよという神託が下ったと言わせる。山頂に引き立てられた兄妹は黄金の羊に乗って逃れた。この羊の毛皮がコルキスの金羊毛となり、のちのアルゴナウタイの航海へつながる。
彼女は姉妹セメレーの遺児ディオニューソスを娘と偽って育てたことがあり、ヘーラーはこれを憎んだ。女神が吹き込んだ狂気により、アタマースは白い鹿と見誤って我が子レアルコスを射殺す。同じ狂気に駆られた彼女は、もう一人の子メリケルテースを煮えたぎる釜に投じ、その遺体を抱いて海へ身を投げた。夫に追われて母子ともに投身したとする版もある。
ゼウスはディオニューソスを育てた恩に報い、彼女を女神レウコテアーとし、メリケルテースを海神パライモーンとした。メリケルテースの遺骸はイルカに乗ってコリントスへ運ばれ、これを記念してイストミア大祭が創始されたと伝えられる。
女神としての彼女は『オデュッセイア』第5巻に現れる。筏を砕かれたオデュッセウスのもとへ海鳥の姿で近づき、身につければ決して溺れないヴェールを貸し与えて救う。ただし、岸に着いたらすぐ海へ返せと言い添える。神の助力に条件がつく珍しい場面であり、彼女が人間だった記憶を保つ神として描かれていることの現れとも読める。
まったく別系統の話もある。山中で山猫に襲われた彼女はバッコスの狂乱に取り憑かれて山猫を引き裂き、そのままパルナッソスのマイナデスの宴に加わった。死んだものと思ったアタマースが後妻テミストーを迎えたのち、乳母を装って宮中に戻り、衣を取り替える策で相手の子を殺させたという。
図像と象徴
本ページの主画像は、南フランスのサン=リュスティスから出たローマ期の浮彫(トゥールーズ、サン=レーモン美術館)である。館の名称は「イーノーあるいはドートーと呼ばれるニュンペー」であり、同定は確定していない。海の女神としての彼女は、ネーレーイスたちと同じ図像の型を共有しており、銘がなければ区別がつかない。
古代の作例で確実なのは、むしろ幼いディオニューソスを抱く保育者としての姿である。ローマ期の浮彫にこの型が残る。海へ身を投げる場面や、オデュッセウスにヴェールを渡す場面は、近世以降の絵画で好まれた主題であった。
コリントス地峡のパライモーン聖域は発掘されており、地下の祭祀施設と犠牲の痕跡が確認されている。神話が語る母子の神格化に、実際の祭祀が対応している例である。
系譜と関係
父カドモス、母ハルモニアー。姉妹にアウトノエー、セメレー、アガウエー、弟にポリュドーロス。夫はアイオロスの子アタマース。子はレアルコスとメリケルテース。
姪にあたるディオニューソスを育てた縁が、彼女の破滅と神格化の双方の原因になっている。またペンテウスの死の場面では、姉妹たちとともに引き裂く側に加わった。
文化的足跡
ローマではマートゥータ(マーテル・マートゥータ)と同一視され、六月十一日のマトラーリア祭で祀られた。この祭では女たちが自分の子ではなく姉妹の子のために祈るという特異な作法があり、姪を育てて破滅した彼女の神話との対応が古代から指摘されている。
小惑星(173)イノは彼女にちなむ。