カーマデーヴァ
カーマ · マンマタ · マダナ
ヒンドゥーの愛の神。甘蔗の弓と花の矢で人の心を射る。苦行中のシヴァを射て第三の眼に焼かれ、身体を失ってアナンガ(無形の者)となった。
解説
概要
ヒンドゥー神話の愛の神。名は「愛欲(カーマ)の神」を意味する。甘蔗(サトウキビ)の弓に蜜蜂を連ねた弦を張り、五種の花の矢で人の心を射る。妻ラティと、春の神格ヴァサンタを常に伴う。もっとも名高いのは、苦行に沈むシヴァの心を動かそうとして第三の眼に焼かれ、身体を失った一件である。以後アナンガ(身体なき者)と呼ばれた。姿を失ってなお働きが絶えないという逆説が、この神の性格を決めている。
神話・物語
カーマの観念はヴェーダに遡る。『リグ・ヴェーダ』の創造讃歌(ナーサディーヤ讃歌 10.129)は、無と有が分かれる以前の闇のうちに「意(マナス)の最初の種子」としてカーマが生じたと歌う。ここでのカーマは色恋ではなく、何かが在ろうとする根源の力である。『アタルヴァ・ヴェーダ』に至ると、望みを叶え敵を退ける神格としての性格が加わり、心臓を射抜く矢の主題が現れる。人格神としての姿が整うのはプラーナ文献においてで、そこではブラフマーの意から生まれた子とされる。
彼を有名にした挿話はこうである。アスラのターラカは、シヴァの子にしか討たれぬという恩恵を得ていた。だがシヴァは妃サティーを失って以来、苦行に沈んで世を離れていた。神々は、シヴァにパールヴァティーへの想いを起こさせるほかないと考え、カーマデーヴァを差し向ける。彼は春を連れて山へ赴き、瞑想する神に花の矢を放った。矢は届いたが、妨げられた苦行者は第三の眼を開き、その一瞥で彼を灰にする。
妻ラティの嘆きは長く語られる。彼女の懇願を容れてシヴァは、姿を持たぬままなら存在してよいと定めた。以後カーマは形をもたず、しかし世界のいたるところに働くものとなる。プラーナの多くは続けて、彼がクリシュナとルクミニーの子プラデュムナとして生まれ変わり、ラティも彼のもとへ戻ったと語る。カーリダーサの『クマーラサンバヴァ』は、この焼失から婚姻へ至る経緯を主題とした。
図像と象徴
若く美しい男性として、装身具と花を身につけて表される。持物は甘蔗の弓と花の矢で、矢の数は五本とされ、蓮、アショーカ、マンゴーの花、ジャスミン、青蓮に当てられる。それぞれが人を惑わす五つの段階に対応するという解釈もある。乗騎は鸚鵡、旗印は水棲の霊獣マカラであり、「マカラを旗とする者」(マカラケートゥ)は彼の常套の別名となった。
彫像では妻ラティと並んで寺院の外壁に配されるのが通例で、単独の主尊として祀られることは少ない。中部インドのヴィディシャー博物館に伝わる8〜9世紀の像は、二人の妃と侍女を従えた姿を刻む。絵画では『ギータ・ゴーヴィンダ』などの写本挿絵に、雲間から矢を放つ姿でしばしば描かれた。
身体を焼かれたという設定は、図像の側では守られていない。灰にされたはずの神が変わらず美しい若者として描かれ続けるという矛盾は、「不在のまま遍在する」というこの神の性格の、造形上の言い換えとみることができる。
系譜と関係
ブラフマーの意から生まれた子とする伝えがもっとも広く、ヴィシュヌとラクシュミーの子とする文献もある。妻はラティ(快楽の意)で、ダクシャの汗から生じたとも語られる。春の神格ヴァサンタが従者として付き従い、二人はしばしば一組で登場する。
インド思想は人生の四つの目的(プルシャールタ)としてダルマ・アルタ・カーマ・モークシャを立てる。カーマはその第三に位置し、否定されるべきものではなく正しく位置づけられるべきものとされた。苦行者シヴァに焼かれる物語は、この価値の緊張を一場面に凝縮したものと読める。焼いた側のシヴァが、その直後にパールヴァティーと婚するという筋立ても、単純な禁欲の勝利ではないことを示している。
文化的足跡
南インドでは、ホーリーの日にカーマの焼失を再演するカーマダハナ(カーマ焼き)の行事が行われる。像や薪を焼き、翌日には嘆くラティの歌が歌われる地方もある。
古典サンスクリット文学において、彼は恋愛詩の常套の装置となった。矢に射られる、灰にされる、姿なく働く——これらの表現は詩の語彙そのものに組み込まれ、後代の地方語文学にも受け継がれている。人名としてのマダン、マンマタも広く用いられる。なお仏教では、修行者を誘惑する魔王マーラが構図の上で似た位置を占めるが、両者を直接に結ぶ系譜はなく、苦行と欲望の対決という共通の主題をそれぞれに展開したものとみるのが穏当である。
領分・別名
親・配偶者・子までを表示(全体はフル系図ページへ)。実線=主要伝承/点線=異伝・別系統。