イシュタル
イシュタール · イシュタァル · Ištar
アッカド語圏の女神で、シュメールのイナンナと融合した。愛と戦を併せ司り、金星の女神として八芒星を象徴とする。ギルガメシュに求婚を拒まれ、天の牡牛を放った話で知られる。
解説
概要
イシュタル(アッカド語 Ištar)は、アッカド語を話す人々——アッカド、バビロニア、アッシリア——が崇めた女神である。愛と性愛、そして戦を司り、金星と同一視された。名はセム語系で、ウガリットや南アラビアの碑文に見える男神アッタルと語源を同じくすると考えられている。明けの明星を戦の男神、宵の明星を愛の女神とする観念が背景にあり、男性形の名のまま女神であり続けたのはそのためだとする説明がある。
もともとシュメールのイナンナとは別の神格だったが、サルゴン王朝の後押しのもとで前24世紀に両者は融合し、以後は同じ女神の二つの名として扱われた。本サイトではシュメール側のイナンナを別項として立て、それぞれの来歴を分けて記す。
神話・物語
アッカド語の『ギルガメシュ叙事詩』第六書板が、この女神の最も名高い登場場面である。フンババを倒して凱旋したギルガメシュに求婚し、歴代の恋人がどう遇されたかを数え上げられて拒まれる。若き日の恋人タンムーズには毎年の嘆きを課し、羽の美しい鳥は翼を折り、獅子には七つの落とし穴を掘り、牧人は狼に変えた——というのがギルガメシュの言い分である。怒ったイシュタルは天に昇り、父アヌに天の牡牛を求め、渡さねば冥界の門を破って死者に生者を食わせると迫る。牡牛は解き放たれ、ギルガメシュとエンキドゥに討たれる。エンキドゥはその腿を引きちぎって女神の顔に投げつけ、この不敬が彼自身の死を招いた。
同じ叙事詩の第十一書板では、洪水の場面でイシュタルが人類の滅びを嘆き悲しむ姿も語られる。苛烈さだけの神ではない。
『イシュタルの冥界下り』は、シュメール語の『イナンナの冥界下り』を下敷きにしながら、翻訳ではなく別個の作品として成立している。138行と短く、女神が冥界にとどまるあいだ地上の生殖が絶えるという主題が加わる。エアの造った者が女王エレシュキガルから生命の水を引き出し、女神は七つの門を逆にたどって装身具を取り戻す。古バビロニア期の『アグシャヤの歌』では、戦意のやまぬイシュタルを鎮めるため、エアが爪の垢から闘争の女神シャルトゥムを造り出す。
図像と象徴
八芒星が最も一般的な標章で、古バビロニア期以降は円盤に囲まれて金星を指す。境界石(クドゥル)や円筒印章では、シンの三日月、シャマシュの光条つき日輪と並んで最上段に置かれた。天体を司る三柱をひとまとまりとして表す構図である。バビロニアの後期には、イシュタル神殿で働く奴隷にこの八芒星の印が焼き付けられたこともあった。
アッカド期の円筒印章に定型化した姿は、両肩から棍棒や矢筒を生やし、獅子の背に足をかけ、有角冠をいただく武装の女神である。主画像に掲げたシカゴ大学オリエント研究所の印章がその典型で、愛の女神という側面より先に、武具そのものを身体から生やす戦の女神として造形されている。戦そのものが「イシュタルの舞」と呼ばれることもあった。
新アッシリア期にはロゼット文が多用され、アッシュル市のイシュタル神殿を飾った。獅子は力の象徴として一貫して従い、鳩もまた古い時代からの標章である。アッシュルの神殿からは前13世紀の鉛製の鳩像が出土している。
系譜と関係
月神シン(ナンナ)とニンガルの娘、太陽神シャマシュの姉妹とされる。シュメールのイナンナの系譜をそのまま引き継いだものである。ただし『ギルガメシュ叙事詩』は父をアヌ、母をアントゥとする別の伝えを採っており、系譜は一本化されていない。夫はタンムーズ(シュメールのドゥムジ)。
ペルシアのアナーヒターは前4世紀以前にイシュタルに相当する神格と習合しており、金星との結びつきと戦の女神としての性格はここに由来するとされる。西方ではウガリットのアシュタルト、フェニキアのアスタルテに影響を与え、その系譜がギリシアのアプロディーテーの形成にも関わったとする見方がある。ただしこれは伝播の推定であって、古代人自身による同一視の記録とは区別して扱うべきものである。
文化的足跡
新バビロニアのネブカドネザル2世が前569年頃に築いたイシュタル門は、この女神に捧げられた。瑠璃を模した青の釉薬煉瓦にマルドゥクの神獣ムシュフシュとアダドの野牛を交互に浮彫にした門で、そこから市内へ延びる行列道路の壁面には、イシュタルに属する獅子が百二十頭あまり配された。20世紀初頭にドイツ隊が発掘し、前面の小門がベルリンのペルガモン博物館に復元されている。
アッシュルバニパルの治世には、イシュタルは国家神アッシュルをしのぐほど広く崇められた。ヘブライ語聖書に見える「天の女王」への言及も、この女神の信仰を背景に読まれてきた。現代の創作では名がしばしば引かれるが、原典のイシュタルは恋愛の守護者であるより先に、拒まれれば天の牡牛を放つ神である。
領分・別名
親・配偶者・子までを表示(全体はフル系図ページへ)。実線=主要伝承/点線=異伝・別系統。