イナンナ
イナナ · Inanna · ニンアンナ
シュメールの女神で、ウルクのエアンナ神殿を本拠とする。愛と戦を同時に司り「天の女王」と称された。金星の神格でもあり、冥界へ降って死に、身代わりを立てて甦る物語で知られる。
解説
概要
イナンナ(シュメール語 Inanna)は、シュメールの都市ウルクを本拠とする女神である。愛と性愛を司ると同時に戦を司り、「天の女王」を称号とした。金星の神格でもあり、明けの明星と宵の明星に対応する二つの姿で祀られた記録が古ウルクにある。
シュメールの神々のなかで最も多くの神話に登場し、異名の数もきわだって多い。もともと別の神格であったアッカド語圏の女神イシュタルとは、前24世紀のアッカド王朝期に融合し、以後は二つの名をもつ一柱として扱われるようになる。本サイトではアッカド語圏のイシュタルを別項として立て、それぞれの来歴を分けて記す。
神話・物語
イナンナの物語は、他の神の領分を奪い取っていく話が多い。『イナンナとエンキ』では、エリドゥのエンキのもとを訪れて酒宴で酔わせ、文明のあらゆる要素を定める神権メを譲り受けると、天の舟でウルクへ運び去る。エンキは酔いが醒めてから使者を送るが、間に合わない。『イナンナの天上獲得』では、兄シャマシュ(ウトゥ)に不満を漏らしたのちアヌに迫り、エアンナ神殿を自らの領分とする。自分に頭を垂れないという理由でエビフ山を滅ぼす詩もある。
最もよく知られるのが『イナンナの冥界下り』である。冥界の女王である姉エレシュキガルのもとへ降ろうとして、七つの門で装身具と衣を一枚ずつ剥がれ、裸で王座の前に立ち、七柱の審判者に有罪を宣されて死ぬ。屍は鉤に吊るされた。従者ニンシュブルの訴えに応じたエンキが二体の性をもたぬ者を遣わし、生命の水と食物で甦らせる。だが冥界は身代わりを要求し、自分の死を悼まず着飾っていた夫タンムーズ(ドゥムジ)が引き立てられる。のちにイナンナは半年ごとの交替を定め、妹ゲシュティンアンナが残り半年を代わって過ごすことになった。
図像と象徴
最古の象徴は、束ねた葦の門柱を輪状に曲げた標章である。倉庫の戸口を表すこの記号は前4千年紀のウルク期にすでにイナンナと結びついており、彼女の名を書く楔形文字そのものでもあった。
主画像に掲げた「ウルクの大杯(ワルカ壺)」——前3200〜3000年頃、雪花石膏製——には、供物を運ぶ裸の男たちの列と、その先で捧げものを受ける女性像、そしてその背後に立つ二本の葦束が刻まれる。この女性像を女神本人とみるか、女神を演じる高位の女神官とみるかは今も定まっていない。
アッカド期以降は八芒星が主要な象徴となり、古バビロニア期には円盤に囲まれて金星を明示するようになった。獅子も早くから結びつき、ニップルのイナンナ神殿から出た緑泥石の鉢には、巨大な猫科の獣が大蛇と戦う場面とともに「イナンナと蛇」の銘がある。円筒印章では、肩から武具を生やし獅子を踏まえた武装の女神として表された。新アッシリア期にはロゼット文が八芒星をしのぐほど多用され、アッシュル市の神殿を飾っている。鳩もまた前3千年紀初頭から供物具に現れ、マリの壁画には神殿の棕櫚から巨大な鳩が現れる場面がある。
系譜と関係
月神シン(ナンナ)とニンガルを両親とする伝えが最も一般的で、太陽神ウトゥは双子の兄にあたる。シュメール文学における両者の距離は近い。冥界の女王エレシュキガルを『冥界下り』では姉と呼ぶが、両者が他のシュメール文学に並び現れることはほとんどなく、神名表でも同じ範疇に置かれていない。シュメール語で「姉妹」と呼ぶことは、序列を同じ高さに置く言い方でもあった。
夫はドゥムジ、従者(スックル)は女神ニンシュブルである。愛の女神でありながら婚姻の女神ではなく、母神として描かれることもない。この点をイナンナの本質と見る研究者もいる。ザバラム市の女神など、もともと別だった地方の女神たちを早くに吸収した形跡もあり、その領分の広さと矛盾の多さは、複数の神格の統合として説明されることがある。
文化的足跡
サルゴンの娘でウル市の月神に仕えたエンヘドゥアンナの名を伝える讃歌群——『イナンナ讃歌(ニンメシャラ)』など——は、イナンナを至高の女神として称える。作者性については議論があるが、名の記された最古の文学として長く紹介されてきた。
ウルクの祭祀は前1千年紀まで続き、アッシリアではニネヴェとアルベラのイシュタルとして国家的な守護神格にまで昇る。20世紀半ばにシュメール語版『冥界下り』が復元されると、死と再生の物語として心理学や現代の文学・演劇に繰り返し取り上げられた。現代の創作にも名が引かれるが、原典のイナンナは豊穣を約束する母神ではなく、奪い、戦い、みずから降りてゆく若い女神である。
領分・別名
親・配偶者・子までを表示(全体はフル系図ページへ)。実線=主要伝承/点線=異伝・別系統。