ニンリル
ニンニル · ムリッス · ムッリル
エンリルの妻とされるメソポタミアの女神。夫と並んで神々の頂点に立ち、運命を定める権能を分け持った。ニップルとトゥンマルを本拠とし、アッシリアではムリッスと呼ばれた。
解説
概要
ニンリル(𒀭𒎏𒆤 DNIN.LÍL)は、エンリルの妻とされるメソポタミアの女神である。夫と同じ領分を担い、とりわけ運命を定める権能を分け持って、神々の頂点に立った。碑文のなかにはこの役割で夫に先立つものすらあり、後期の讃歌は、エンリルがニンリルなしには何ごとも決めなかったと歌う。ウル第三王朝の諸王は、地上の王権がこの二柱から出ると考えた。
名の第二要素 líl の意味は定まらない。後代の注釈書は名を「そよ風の女主人」と説明しており、エンリルの名を「風の主」と解する通説と対応する。アッカド語形はムリル、新アッシリアではムリッスと綴られ、この形はアラム語やマンダ語の文献にも入り、ヘロドトスやクテシアスはミュリッタとして書きとめた。
神話・物語
ニンリルをめぐる主要な物語は二つあり、その描かれ方は対照的である。
『エンリルとニンリル』では、若い女神が母ヌンバルシェグヌの忠告を退けてエンリルと交わり、月神ナンナを身ごもる。エンリルは「五十の大神」と「運命を定める七柱」に穢れた者と裁かれ、ニップルを追われる。ニンリルは後を追い、冥界へ下る道すがら、門番・冥界の河の男・渡し守に姿を変えたエンリルとさらに三度交わって、ネルガル、ニンアズ、エンビルルを産んだ。この三柱は、月神を地上へ送り返すための冥界への身代わりであると解される。最初の交わりを強姦と読むか婚前交渉と読むかは今日も論争が続いており、続く三度については合意のうえと見る解釈が有力である。この作品でのニンリルは従属的な配偶者として描かれており、ウル第三王朝の国家祭祀における実際の地位とは釣り合わない。
もう一つの『エンリルとスド』は、結婚そのものを語る。妻を求めて旅するエンリルは、エレシュの街でスドに求婚するが手ひどく拒まれ、従神ヌスカを立てて母ニサバと交渉させる。約束された贈り物が届き、婚礼が調うと、スドは「名なき女神」から「大いなる名を持つ女神」へと改まり、ニンリルの名を与えられる。ここでの女神は、拒む意思と交渉の相手方を持つ主体である。
シュルッパクの都市神スドとの習合は、名の由来をこのように物語で説明するところまで進んだ。習合の結果、スドに固有だった医療の女神グラとの結びつきまでがニンリルに移り、この女神を癒やしの神として歌う讃歌が生まれている。
図像と象徴
ニンリル固有の図像は乏しい。ウル第三王朝期の円筒印章に、玉座に坐る女神として、あるいは有角の冠を戴いて礼拝者を導く背の高い女神として描かれている可能性が指摘されるが、銘文がなければ決め手を欠く。讃歌はしばしばこの女神を牝牛に喩えるが、これは多くの神格に共通する言い回しであり、動物の姿をとることを意味しない。
天文学では二つの星座がこの女神に配された。大熊座にあたる「荷車(mar-gíd-da)」と、琴座にあたる「山羊(ÙZ)」である。
本項に掲げるのは、瑪瑙製の眼形ビーズである。カッシート朝のクリガルズ王(1世か2世か決めがたい)が「エンリルの妻ニンリルに」奉献した旨の銘文を刻む。姿を描いた像ではないが、銘文によってこの女神への奉献と確定できる稀な遺物であり、図像の乏しいこの神格を語るうえではむしろ実情に即している。
系譜と関係
夫はエンリル。両者は初期王朝時代のアブ・サラビーフやウルの文書から、すでに一対として現れる。
両親については伝えが割れる。『エンリルとスド』は書字の女神ニサバとその夫ハイアを両親とし、『エンリルとニンリル』は母をヌンバルシェグヌとするが、神名表『アン=アヌム』はこれをニサバの別名とする。アッカド語の文献にはアヌとアントゥの娘とするもの、アヌとナンムの娘とするものもある。
子には月神ナンナ、冥界の神ネルガル、ニンアズ、エンビルル、そして戦と農耕の神ニヌルタが数えられる。ニヌルタの母は伝えによってニントゥやニンフルサグともされ、一本には定まらない。従神(スクカル)はビジラである。
対応関係も広い。マリやエマル、ウガリットでは、ダガンの妻シャラシュがニンリルに擬せられた。夫たるエンリルとダガンが対応づけられたことの帰結である。ウガリットの三言語対応表は、ニンリル、アーシラト、フルリの「クマルビの妻」を同じ行に並べる。ティグラト・ピレセル1世以降のアッシリアでは、この女神はムリッスとして国家神アッシュルの妻とされ、さらにニネヴェやアルベラのイシュタルとも重なっていった。
なお、名に含まれる líl を悪霊リリートゥ、ひいてはリリスの起源に結びつける説が一般書に流布しているが、líl の語義そのものが未確定であり、根拠は薄い。
文化的足跡
信仰の中心はニップルのエクル神殿群にあった。ニンリルはそのなかのキウルに祀られ、寝所とされる社や、夫と共有の倉が知られる。もう一つの拠点がニップル近郊のトゥンマルで、ウル第三王朝期にはここで祭が営まれ、女神が王の運命を新たに定めることで王権の正統性が更新された。前1千年紀にはキシュのフルサグカラマにも導入され、そこで祀られていたイシュタルに取って代わっている。
一柱の女神の領分が、歴史を通じて他の女神を吸収しながら広がり続けた例として、ニンリルはしばしば挙げられる。スドを吸収し、シャラシュに擬せられ、ムリッスとしてアッシリアの国家神の妻となり、イシュタルの都市を引き受けた道筋は、その通りをたどっている。
領分・別名
親・配偶者・子までを表示(全体はフル系図ページへ)。実線=主要伝承/点線=異伝・別系統。