アーシラト
アシェラ · アシラト · アティラト
ウガリット神話の母神で、至高神エールの妻。七十柱の神々を産んだ「神々の生みの親」とされる。ヘブライ語聖書ではその名が祭具の名でもあり、古代イスラエル宗教史の論点となっている。
解説
概要
アーシラト(𐎀𐎘𐎗𐎚 ʾaṯrt / Athirat。ヘブライ語形はアシェラ)は、古代西セム世界で広く崇拝された母神である。ウガリットでは至高神エールの妻であり、「神々の生みの親(qnyt ʾilm)」「聖なる者(qdš)」「貴婦人(rbt)」と呼ばれた。エールの女性形にあたるイラト(ʾilt、「女神」)の名でも呼ばれる。アラビアの女神アッラートの名も、この語形と語源を同じくする。
もっとも知られた称号は「海のアーシラト(rbt aṯrt ym)」だが、その解釈は定まっていない。ym を「海」と読んで「海の貴婦人」とするのが伝統的だが、「海を歩む者」「ヤムを踏みつける者」とする読みもあり、ym を「日」と解する説さえある。この称号が『バアル叙事詩』にしか現れないことも、議論を難しくしている。
神話・物語
ウガリット文書のアーシラトは、エールの傍らにあって神々を産み、取りなす女神である。「アーシラトの七十の子」がすなわち神々であり、バアルが新しい宮殿の落成に招くのもこの七十柱である。
『バアル叙事詩』では、バアルが宮殿の造営を望んだとき、アナトがエールを恫喝しても許しは下りず、アーシラトが贈り物を受けて夫に願い出てはじめて認められる。他方でこの女神は、海の神ヤムの側に立ってバアルと対立する場面を持ち、バアルが死の神モートに呑まれたあとは、自らの子アシュタルを王位に就けようとする。ケレト王の物語では、王が婚礼の宴で自分への誓いを果たさなかったことを怒り、病を送る。取りなす母であると同時に、侮られることを許さない女神である。
ヒッタイト語で伝わる「エルクニルシャ神話」では、アシェルドゥの名で現れ、夫の目を盗んで嵐の神を誘惑しようとし、拒まれて復讐を企てる。ウガリットの威厳ある母神とはかなり異なる像であり、伝承が地域ごとに違う顔を持っていたことを示す。
メソポタミアにも、アシュラトゥの名でこの女神は現れる。アムル人の神マルトゥ(アムル)の配偶神とされ、ハンムラビはシッパルから出土した石板でこの女神に奉献を行い、「山の主」と讃えている。近年公刊されたアモリ語=アッカド語の二言語対訳書板では、アモリ語の ašeratum にアッカド語の母神ベーレト・イリが対応している。同じ名の女神が、体系ごとに異なる位置を占めていたことになる。
図像と象徴
アーシラトを最もよく代表する象徴は樹木、とりわけナツメヤシである。この結びつきは強く、ヘブライ語聖書で祭具を指すアシェラ柱の語がそのまま女神の名でもあることの背景をなす。
ラキシュ出土の後期青銅器時代の水差しには、聖樹を左右からヌビアアイベックスが食む定型の図柄が描かれるが、同じ遺構から出た杯では、樹の位置に女性の陰阜三角形が置かれている。樹と身体が入れ替わりうるという指摘は、聖樹をこの女神と結ぶ有力な論拠とされてきた。獅子もまたこの女神に添えられ、前11世紀の鏃には「獅子の貴婦人の僕」と刻まれている。
本項に掲げるのは、レヴァディム出土、前13世紀の粘土製プラーク像である。二人の小さな人物に乳を与え、両手で自らの陰部を開いて見せる姿をとる。豊穣の母神としてのアーシラトを表すとされてきた作例だが、これを乳母とみるか出産する女性とみるかについても論争があり、そもそもこの種の像がどの女神を表すのかは銘文を欠くために確定していない。イスラエル・ユダの遺跡から大量に出土する「ユダの柱状女性像」も同様である。C・フレーフェルは「固有のアシェラ図像は存在しない」と結論しており、この分野で断定を避けるべき理由をよく示している。
エジプトのケデシュ(Qetesh)をアーシラトと同定する説は1941年以来くり返し唱えられてきたが、批判も根強く、限定的な支持にとどまる。
系譜と関係
夫はエール、子は七十柱の神々。ヤム、モートは名を挙げて子とされる。アナトはウガリットではエールの娘であり、アーシラトとの母娘関係は明示されない。
ウガリットから出土した三言語の語彙対応表は、メソポタミアのニンリル、ウガリットのアーシラト、そしてフルリの「クマルビの妻」を同じ行に置く。夫たち——エンリル、エール、クマルビ——がいずれも「神々の父」として対応づけられたことの帰結である。太陽女神シャプシュとの重なりを指摘する近年の研究もある。
文化的足跡
ヘブライ語聖書には、アシェラの語が約四十回現れる。その多くは女神ではなく木製の祭具を指し、七十人訳はこれをほぼ一貫して「森(ἄλσος)」と訳した。ウルガタは lucus、欽定訳は grove を当てたため、英訳聖書の読者は四百年以上のあいだ、この語の背後にある女神の名を読み取れなかった。
古代イスラエルにおいてアーシラトがヤハウェの配偶神として祀られたか否かは、20世紀後半以来の大きな論点である。焦点となるのが、シナイ半島のクンティレト・アジュルドと、ユダのキルベト・エル=コムから出た前9〜前8世紀の碑文で、「ヤハウェとそのアシェラ」と読める句を含む。これを女神の証拠とみる研究者と、祭具ないし聖域を指すとみる研究者とが対立し、決着していない。W・G・デヴァーが指摘するように、ヘブライ語聖書において名がはっきり確認できる唯一の女神がアーシラトであることは、いずれの立場にとっても出発点となる事実である。
領分・別名
親・配偶者・子までを表示(全体はフル系図ページへ)。実線=主要伝承/点線=異伝・別系統。