ウェヌス
ヴィーナス · ビーナス · ウェヌス・ゲネトリクス
ローマ神話の女神。もとは庭と魅惑を司る在来の神であり、アプロディーテーと重ねられて愛と美の女神となった。アイネイアースの母、すなわちローマ人の祖神でもある。
解説
概要
ウェヌス(Venus)は、愛・美・欲望・豊穣・勝利を司るローマの女神である。名は普通名詞の venus(魅力、欲望)と同じ語で、印欧祖語 *wenh₁-(希求する)に遡る。もとは囲われた菜園と、人が神の心を惹きつける魅力そのものに関わるイタリア在来の神格であり、固有の誕生譚も物語ももたなかった。
前3世紀以降、ギリシアのアプロディーテーと同一視され(インテルプレタティオ・ロマーナ)、その物語と図像を丸ごと引き受ける。ウェヌスの神話として語られるものは、ほぼアプロディーテーのものである。それでも独立の項目を立てるに足る理由がある。ウェヌスはローマ人の祖神であり、共和政末期の権力闘争のなかで、きわめて政治的な神になったからである。
神話・物語
海の泡から生まれたという誕生譚も、ウゥルカーヌスの妻でありながらマールスと通じ、アドーニスを愛し、パリスの審判で林檎を得る挿話も、すべてアプロディーテーから受け継いだものであって、在来のウェヌスにはなかった。
ローマにとって決定的なのは、トロイアの王族アンキーセースとのあいだに生んだ子アイネイアースである。ウェルギリウス『アエネーイス』は、落城のトロイアを脱した彼がイタリアへ渡り、ローマ人の祖となるまでを歌う。女神は息子の航海を庇い、ユーノーがそれを妨げる。この筋書きによってウェヌスはローマ建国の系譜に組み込まれ、アイネイアースの子イウールスを祖と称するユーリウス氏族——カエサルとアウグストゥスの家系——の始祖となった。
もっとも、この女神の厚みは物語よりも祭祀の歴史にある。最初の神殿は第三次サムニウム戦争のさなかに誓願され、前295年、寛容なるウェヌス(オプセクエーンス)に献じられた。姦通の罰金を財源にしたと伝えられる。前217年、トラシメーヌス湖畔の大敗のあと、シビュラの書の託宣に従い、カルタゴ側のシキリアで崇拝されていたエリュクスのウェヌスをローマへ迎え、カピトーリーヌスの丘に据えた。敵方の守護女神を寝返らせる作戦である。前114年には、ウェスタの巫女の不貞事件への贖いとして「心を変えるウェヌス」(ウェルティコルディア)の神殿が建つ。愛の女神が貞節を説く側に回った。
共和政末期、将軍たちはこの女神の寵愛を競い合った。スッラは幸運なる者(フェーリクス)を名乗り、ポンペイウスは前55年、勝利のウェヌス(ウィクトリクス)の神殿を自らの劇場の頂に載せる。カエサルはさらに進み、前46年、母なるウェヌス(ゲネトリクス)の神殿をフォルム・ユーリウムに献じて、一族の祖神を国家祭祀の中心に押し上げた。ハドリアーヌスが135年に献堂したウェヌスと永遠のローマの神殿は、古代ローマ最大の神殿だった。
図像と象徴
象徴の中心はミュルトゥス(銀梅花)である。祭日には神像も信者もこの花冠を戴いた。婚礼では花嫁の花束に用いられたが、花冠には入れられない。結婚そのものはユーノーの管轄であり、ウェヌスが司るのは誘惑の側だからである。ほかに薔薇、鳩、帆立貝、鏡、審判の林檎。「ケレースとバックスなくばウェヌスは凍える」という諺のとおり、日常の葡萄酒もこの女神の領分だった。
造形はプラクシテレースの《クニドスのアプロディーテー》に始まる裸体像の系譜に連なる。ローマで広く作られたカピトリーノ型は、水浴から身を起こし両手で胸と下腹を覆う姿——ウェヌス・プディーカ(恥じらいのウェヌス)——で、隠す仕草がかえって視線を導く。髪を絞りながら海から上がる型はアナデュオメネーと呼ばれ、アペレースの失われた絵画に由来してボッティチェリへ流れ込んだ。
見落とされがちなのは、この女神が神殿の彫像としてだけでなく、家のなかにいたことである。ポンペイの住宅では、正装して直立するウェヌス・ポンペイアーナが客を迎える部屋に、釣り竿を手にクピードーを従えた寛いだウェヌス・ペスカトリーチェが私的な部屋に描き分けられた。公の顔と私の顔がある女神だった。
系譜と関係
ウゥルカーヌスの妻、マールスの愛人、クピードーの母、アイネイアースの母。アプロディーテーとの同一視が物語のほぼ全ての出所であるが、両者の名は同源ではなく、来歴も異なる。ウェヌスは在来神、アプロディーテーは東方の女神アスタルテとの接触を経た神格であり、重なったのは職能である。
ゲルマンの神々を解釈したローマ人は、ウェヌスをフリッグ(あるいはフリヤ)に当てた。その結果、ラテン語の dies Veneris(ウェヌスの日)はゲルマン語で「フリッグの日」と訳される。フランス語の vendredi、スペイン語の viernes と英語の Friday は、同じ一日を別の女神の名で呼んだものである。金星をウェヌスと呼ぶ慣習は、アプロディーテーが金星を司るとされたことに由来する。
文化的足跡
ウェヌスの名は、やがて女性裸体像そのものの代名詞になった。誰を表すのか分からない古代の裸婦像を美術史が慣例的に「ヴィーナス」と呼ぶのはそのためで、《ミロのヴィーナス》の呼称もこの慣例に属する。あの像は本来ギリシアのアプロディーテーであって、ローマの女神ではない。
ボッティチェリ《ヴィーナスの誕生》、ティツィアーノ《ウルビーノのヴィーナス》、ベラスケス《鏡を見るヴィーナス》、カバネル《ヴィーナスの誕生》。裸体を描く口実として、この名は近世以降の西洋絵画に繰り返し用いられた。一方でルクレーティウスは『事物の本性について』の巻頭を「アエネーアースの裔の母、人と神の悦び、恵み深きウェヌスよ」と呼びかけて始めている。愛の女神への挨拶であると同時に、生殖の力そのものへの賛歌である。
女性を表す記号「♀」も、占星術がウェヌス(金星)に与えた記号に由来する。現代の創作にも愛の女神として登場するが、その多くはアプロディーテーとの区別を置かない。
領分・別名
親・配偶者・子までを表示(全体はフル系図ページへ)。実線=主要伝承/点線=異伝・別系統。