スヴェントヴィト
スヴャトヴィト · スヴァントヴィト · スヴァントヴィート
バルト海リューゲン島のラニ族が奉じた主神。四つの顔と角杯を持つ巨像がアルコナの神殿に立ち、収穫の豊凶と戦の吉凶を占う神として仰がれた。1168年、デンマーク軍がその像を引き倒した。
解説
概要
スヴェントヴィト(Svetovit、共通スラヴ語の再構形 *Svętovitъ)は、バルト海のリューゲン島に住んだラニ族の主神であり、のちにはバルト海沿岸のポラーブ・スラヴ諸族全体から仰がれた。聖域は島北端の岬アルコナにあった。司祭ヘルモルトは『スラヴ年代記』でこの神を「神々の神」と呼び、サクソ・グラマティクスの『デンマーク人の事績』第14巻は神殿と神像と年祭を細部まで描く。後者はスラヴ神話の祭祀について現存する最も長い記述であるが、書いたのは異教を破壊する側である。
名の前半 *svętъ は「聖なる」あるいは「強い」を意味し、リトアニア語 šventas、アヴェスター語 spəṇta と同じ語根に遡る。後半の -vit は「主」「英雄」を表す接尾辞とされ、全体は「聖なる主」「強き主」と訳しうる。19世紀ポーランドのロマン主義者が広めた Światowid(vid=見る、すなわち「四方を見る神」)という読みは語源上成り立たない。
神話・物語
物語は伝わらない。伝わるのは祭儀である。
サクソによれば、収穫を終えた秋に年に一度の大祭が開かれた。前日、司祭は神殿を掃き清める。人の息で神の座を汚さぬよう、息を継ぐたびに戸口へ走り出たという。当日はまず神像の右手が握る角杯を検める。前年に注いだ酒が減っていれば凶作の前触れとして蓄えを命じ、減っていなければ豊作を告げた。司祭は古い酒を像の足元に注ぎ、新しい酒を満たし、飲み干して杯を戻す。続いて蜜を練り込んだ巨大な丸い菓子が運ばれ、司祭はその陰に立って「私が見えるか」と問う。見えると答えが返ると、来年は見えぬようにと願った。菓子が人の背丈を越えるほど実りが豊かであれ、という願いである。
戦の吉凶は白馬が占った。司祭が槍を交差させて三列に並べ、神の馬を引いて越えさせる。右足から踏み出せば出陣、左足からなら中止と決した。この馬は神自身の乗り物でもあり、夜のうちに敵と戦って戻るため朝には汗と泥にまみれていると信じられた。神殿はまた富の集積地でもあり、男女は年に一枚の貨幣を納め、戦利品の三分の一が神に帰した。1168年、デンマーク王ヴァルデマー1世とロスキレ司教アプサロンがアルコナを陥落させる。神像は首に縄をかけられ、スラヴ人の見ている前で軍勢のあいだを引き回され、割られて火に投じられた。
図像と象徴
サクソが記す神像は、人の背丈をはるかに超える木像であった。四つの首に四つの頭が載り、二つは胸のほうを、二つは背のほうを向く。前後それぞれの一対のうち、一方は右を、他方は左を見る。髭は短く刈り込まれ、髪も短い。ラニ族自身の髪型を写したものだろう、とサクソは書いている。右手は数種の金属をあしらった角杯を握り、左腕は脇へ曲げて弓を持つ。足元まで届く衣は異なる木材を継いだものだが、接合部は丹念に調べなければ分からぬほど巧みに隠されていた。かたわらには轡と鞍、銀の鞘と柄をもつ巨大な剣が置かれた。
四つの頭は、四方位の支配と結びつけて読まれてきた。ギェイシュトルはむしろ「四」という数そのものに注目し、雷神と結びつく数として印欧語族の比較に持ち込んでいる。四面の像はスラヴ圏の考古資料に実例があり、ヴォリン島出土の高さ9.3センチの小像は四方を向く顔を彫って9世紀後半にさかのぼる。ズブルチの石像も四つの顔を持つが、同定にも年代にも異論が残る。リューゲン島のアルテンキルヒェン教区教会の壁には、1.19×1.68メートルの花崗岩板が組み込まれている。帽子をかぶり長衣をまとった口髭の男が、大きな角杯を捧げ持つ。10〜11世紀のものと見られ、キリスト教的な意匠を欠くこと、見下げた横倒しの位置に据えられていること、角杯と口髭という属物が揃うことから、現在はこの神の像と見るのが有力である。ベルゲンの聖マリア教会の石板が胸の前に抱く十字架も、先に彫られていた角杯の上に刻み直されたものらしい。
系譜と関係
系譜は伝わらない。親も配偶者も子も記録がなく、語れるのは職能と祭儀だけである。輪郭を与えるのは同じ地域の神々の並びのほうで、リューゲン島のカレンツァにはルギェヴィト、ポレヴィト、ポレヌトの像があり、シュチェチンには三つ頭のトリグラフ、レトラにはスヴァロジチの聖域があった。-vit で終わる神名がこの地域に集中していることは古くから注意されている。
研究史では、この神を独立した一柱と見ない立場が繰り返し現れた。ギェイシュトル、イヴァノフとトポロフ、カティチッチはいずれもペルーンのポラーブ地方における現れ(ヒュポスタシス)と考え、ブリュクナーはさらにスヴァローグやダジボーグをも同一の神の別名とした。ポラーブの軍神ヤロヴィトと同一とする説は、jarъ と svętъ がかつて同義だったという前提に立つが、その前提自体が疑われている。いずれも復元であって、原典が語る系譜ではない。聖ウィトゥスに由来するという説も同様に退けられている。ヘルモルトは、ラニ族が一度改宗しながら背教し、コルヴァイ修道院の守護聖人を神として崇めるに至ったという「古い伝え」を記すが、9世紀にリューゲン島がキリスト教化された証拠はなく、コルヴァイが貢納権を主張するために12世紀に作った話と見るのが大勢である。
文化的足跡
破壊された神は、破壊されたことによって記憶された。19世紀末、デンマークのラウリツ・トゥクセンはアプサロンによる神像の打倒を歴史画に描く。同じ出来事を、チェコのアルフォンス・ミュシャは連作『スラヴ叙事詩』第2作「リューゲン島のスヴァントヴィト祭」(1912年、プラハ国立美術館)に、収穫祭へ集う白衣の巡礼と、その頭上で迫る敵と戦う神々として描いた。1168年の一日が、征服の栄光としても被征服の記憶としても絵になったことになる。ポーランドではズブルチの石像が「シフャトヴィト」の名で国民的な象徴となり、クラクフのヴァヴェル城下に複製が立つ。四つの顔という造形は覚えやすくゲームやアニメにも取り込まれているが、そこでの姿は原典の記述とは切り離して見る必要がある。