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トリグラフ
PLATE — *TRIGOLVЪ
SLAVI · スラヴ神話
*TRIGOLVЪ

トリグラフ

トリグラーフ · トシグウフ · Trzygłów

Radosław Drożdżewski (Zwiadowca21) CC BY-SA 3.0

バルト海南岸ポメラニアのスラヴ人が奉じた三つ頭の神。天・地・地下の三界を見張り、人の罪を見ぬよう目と口を金の布で覆っていたという。1127年、司教オットーがその像を砕いた。

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解説

概要

トリグラフ(Triglav、ポーランド語 Trzygłów、ラテン語史料では Triglau, Trigelaw, Triglaff など)は、バルト海南岸のポメラニアのスラヴ人が奉じた神である。名は「三つの頭を持つ者」を意味する。祭祀の中心はシュチェチンとヴォリンにあり、ブレンナ(現ブランデンブルク)でも崇拝されていたと見られる。

この神について知られることは、すべてキリスト教側の記録に由来する。しかもその記録は、崇拝を根絶した当人の伝記である。典拠は三つ。プリューフェニング修道院の匿名修道士による最古の伝(1146年までに成立)、修道士エボの伝(1151年)、修道士ヘルボルトの対話体の伝(1158〜59年)で、いずれもバンベルクのオットー伝と総称される。崇拝が記録に現れるのは1124年、絶えるのが1127年。つまりこの神の歴史は、破壊される直前の三年間しか見えていない。

神話・物語

物語は伝わらない。伝わるのは、崇拝が壊された経緯である。

1124年、教皇カリストゥス2世の許可を得たバンベルク司教オットーがポメラニアに入る。ヴォリンでは追い返され、シュチェチンへ移った。ボレスワフ3世の安全保証を得て11月1日に布教を開始する。匿名伝によれば、市内には近接して二棟の華麗なコンティナが建ち、トリグラフが祀られていた。一方には金と銀を張った神の鞍と、よく肥えた一頭の馬が置かれ、占いに用いられた。地面に数本の槍を並べ、そのあいだを馬に歩ませる。神に導かれた馬が一本も蹄に触れなければ吉と読み、戦や旅に発ってよいとした。ヘルボルトはこの馬を黒毛と記す。白馬で同じ占いを行ったスヴェントヴィトと対をなす細部である。

オットーは神殿を壊して供物を住民に分け、木像は自ら砕いた。持ち去ったのは銀を張った三つの首だけで、これを改宗の証しとして教皇へ送っている。ヘルボルトはシュチェチンに四棟のコンティナがあったとし、うち一棟は壁面に人と鳥獣を彫り出して生きているようであったと書く。金銀の大杯、宝石を嵌めた牛角の杯、剣と刀と調度が神に捧げられていた。

エボはヴォリンの側を伝える。司祭たちは黄金の像を持ち出して州外へ逃がし、貧しい農家の寡婦に預けた。寡婦は大木の幹に穴を穿ち、布に包んだ像をそこへ納め、供物を差し入れる小さな口だけを残して誰にも見せなかった。オットーの従者ヘルマンはスラヴ風の帽子と上衣を買い、海難を逃れたのはトリグラフの加護によると偽って寡婦の家に入る。穴に銀貨を投げ入れて音を立て、投げたものを取り戻し、代わりに唾を吐いて「供物」とした。だが像は幹に固く据えられて動かせない。手ぶらでは帰れぬと思案した彼は、壁に掛かっていた古びたトリグラフの鞍をもぎ取って戻った。オットーは黄金を奪えば正義ではなく強欲と見られると考えて追及をやめ、代わりに首長たちへ誓約を求めた。崇拝を捨てること、像を砕いてその金は捕虜の身請けに充てること。

1125年に司教はいったん帰任するが、ヴォリンとシュチェチンでは旧来の信仰が戻る。エボによれば、ヴォリンでは焼かれた偶像に代わる像が金銀で飾られ、祝祭が開かれた。シュチェチンでは疫病が流行し、司祭たちはこれを神々を捨てた罰と説いた。1127年、オットーは再びポメラニアへ渡り、7月31日にシュチェチンへ戻って祭祀の場を破壊する。

図像と象徴

中世の像は一体も残らない。木像も黄金像も砕かれ、教皇に送られた三つの首の行方も知れない。手がかりは文章だけである。

ヘルボルトは「一つの胴に三つの頭を載せた像」と記す。エボはより詳しい。シュチェチンには三つの丘があり、中央の最も高い丘が「異教徒の最高神トリグラフ」に捧げられていた。その像は目と口を金の布で覆われていた。司祭たちの説明では、三つの頭は天・地・地下という三つの国を見張るためであり、布は人の罪を見ず語らずにおくためである。目を塞ぐという細部を逆に読み、その眼にこそ大きな力が宿ると解する見方も古くからある。

近世に入ると、この神は図像を「与えられ」はじめる。ボヘミアの語彙集『マーテル・ウェルボールム』の偽注記は Trihlav を山羊の三つ頭に結びつけ、フレンツェルの1719年の学位論文は「トリグラ」を天と地と地獄の女神とした。モンフォコンの『古代図解』(1722年)の図版は「TRIGLA」と題して三つ頭の裸婦を刻み、カイサロフの『スラヴ・ロシア神話』(1804年)もトリグラフを三つ頭の女として説明する。三つ頭という一語だけを頼りに、性別まで作り替えられていったことになる。これらは12世紀の神ではなく、近世古物学の産物として扱うべきものである。ヴォリンの町の展望台に立つ三面の石柱も、同じく後世の記念碑である。

比較の材料になる遺物はある。ズブルチの石像は柱面の三段を天界・地上・地下界と読む解釈があり、この三層構造をトリグラフの三界支配と重ねる論者がいる。スロヴェニア領イストリアのクルカヴチェには紀元1世紀のものとされる高さ2.5メートルの石柱が立ち、そこにトリグラフが刻まれているという説もあるが、同定は確かでない。

系譜と関係

親も配偶者も子も伝わらない。この神を位置づけるのは、原典ではなく学説である。

ギェイシュトルは、トリグラフをペルーンとは別の部族神と見る。ヘルボルトによればシュチェチンの聖所には樫と泉があり、これは雷神の属物であるから、その傍らに別に立つ神は雷神ではない、という筋である。捧げられた馬が黒毛であった点も、白馬を受けたスヴェントヴィト(彼はこれをペルーンのポラーブにおける現れと見る)との対比から、地下界の神ヴォーロスに近い神格を示すと解される。像が黄金であったことも根拠に加えられた。シイェフスキも同じくチトン神と見て、ヴォーロスとヴォロゴシチ、ヴォルィニ、ヴォリンという地名の関連、およびヘルボルトがヴォリンで「プルートー」が崇拝されていたと記す点を挙げる。

ディンダの読みは異なる。三つの頭は天・地・地下を司る三柱の結合であり、ヴォリンの「ネプトゥーヌス」への言及、ズブルチの三層の石像、聖なる槍を掲げた柱、泉を伴う樫といった要素は、いずれも世界軸に関わるという。目と口を覆われた神を、オーディンやウァルナのように「見ることに欠けた暗い神」の系列に置く比較も示す。

ウォミャンスキはさらに踏み込み、この神自体をキリスト教起源と考えた。中世には三位一体を三つの顔を持つ姿で描く図像があり、それを異教側が取り込んだのがトリグラフだという説である。トロヤンと結びつける説も繰り返し出されてきたが、これも復元であって、原典が語る同一視ではない。

文化的足跡

北西ポーランドには、ヴォリンから運び去られた像の行方をめぐる言い伝えが採集されている。グルィフィツェの村に、ヴォリン島のシフィェントウイシチに、ティホヴォの迷子石トルィグワフの下に、あるいはトシグウフ湖の底に隠されている、という具合である。トシグウフという村名も残るが、これはシュチェチンの祭祀圏の内にある。スロヴェニアの最高峰トリグラウ山と「水から最初に現れたのは高い山トリグラフだった」という伝説もしばしば持ち出されるが、スノイのようにこの山と神の関係を疑う研究者もいる。

神殿があった丘はシュチェチンの城山と見られ、8世紀にさかのぼる環状の聖域の上に神殿が建ち、さらにその上にキリスト教の聖堂が建った。ブランデンブルクの「トリグラフの丘」に近い城砦跡からは、青銅の馬形と大量の土器が出土している。小惑星2522番はこの神にちなむ。

現代のスラヴ新異教運動(ロドノヴェーリエ)ではしばしば三神一体の神として説かれ、ゲームや漫画にも三つ頭の姿で登場する。ただし、そこで語られる「スヴァローグ・ペルーン・ダジボーグの三柱から成る」といった組み合わせは12世紀の史料になく、19世紀以降の再構成である。

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領分・別名

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資料

Wikidata
Q591914 — 骨格データの出典
Commons
Triglav (mythology) — 図像カテゴリ