スレイプニル
スレイプニール · スレープニル · 滑る者
オーディンが騎乗する八本脚の馬。ロキが牝馬に姿を変えて産んだ子で、馬のなかで最良とされる。地上も冥界も駆け抜ける。
解説
概要
スレイプニル(Sleipnir)は、オーディンが騎乗する八本脚の馬。名は「滑る者」と解され、馬のなかで最良とされる。灰色の毛並みを持ち、地上も海も空も、そして死者の国さえも駆ける。
北欧神話の獣のうち、この馬は生まれ方が最も奇妙である。父は巨人の種馬スヴァジルファリ、母は——牝馬に姿を変えたロキである。神々を欺くための策略が、そのまま主神の乗騎を生んだことになる。
登場する物語
『ギュルヴィたぶらかし』第42章が出生を語る。
神々がミズガルズを定め、ヴァルハラを建てて間もない頃、一人の職人が現れ、三季のうちに巨人を防ぐ城壁を築こうと申し出た。報酬はフレイヤと、太陽と、月である。神々は条件をつけて承諾した——誰の助けも借りず一人で仕上げること。職人は種馬スヴァジルファリの助けだけを求め、ロキの口添えでそれが認められる。
この馬が並外れていた。職人の倍の働きで巨岩を運び、工事は驚くほど速く進む。期限の三日前、城壁は入口を残すだけになった。神々は誰の責任かを問い、ロキだと即座に一致する。死を突きつけられたロキは、必ず職人に報酬を失わせると誓った。
その夜、石を取りに出た職人と種馬の前に、森から牝馬が走り出て嘶いた。スヴァジルファリは繋具を引きちぎって追いかけ、二頭は一晩中走り回る。工事は止まった。相手が巨人と知れた神々は誓約を反故にし、トールが槌で職人の頭を砕く。
そして「しばらくのち」、ロキは八本脚の灰色の仔馬を産んだ。神々と人のなかで最も優れた馬、スレイプニルである。
以後この馬は境を越え続ける。『バルドルの夢』ではオーディンを乗せて死者の国へ下り、『ギュルヴィたぶらかし』ではヘルモーズを乗せて九夜のあいだ暗い谷を走り、ヘルの門を跳び越える——門にかすりもしなかった、と語られる。巨人フルングニルとの競走では、その速さがそのまま神々の世界への侵入を招いた。
『ヘルヴォルとヘイズレク王のサガ』の謎かけにも現れる。「十本の脚で走り、三つの目を持ち、尾は一つ。これは何か」——答えは、スレイプニルに乗ったオーディンである。片目の主神と八本脚の馬を足すと、その数になる。
図像と象徴
この馬には、写本より数百年古い証言がある。
ゴットランドの絵画石のうち、アルドレ VIII 号(8〜9世紀)とティェングヴィデ石には、八本脚の馬に乗った人物が館へ迎え入れられる場面が刻まれている。角杯を差し出す女性が出迎え、その先に建物が描かれる。ヴァルハラに到着する戦死者、あるいはオーディンその人と解されるのが通例である。八本脚という際立った特徴のおかげで、北欧神話の図像のなかでは同定が確実な数少ない例になっている。
八本脚が何を意味するかは、議論がある。単に速さの誇張とする読みのほか、棺を担ぐ四人の脚が馬の脚に見立てられたとする解釈がある。インドのヴェーダに八本脚の馬が現れること、シベリアやモンゴルの葬送歌に死者を運ぶ多脚の馬が歌われることを引いて、シャーマニズム的な他界往還の観念に結びつける説も長く唱えられてきた。ただしこれは仮説であり、北欧の資料そのものが説明を与えているわけではない。
象徴としては、越境が要である。この馬が行くのは、生者の行けない場所である。オーディンが死者を訪ね、巨人の国へ乗り込み、ヘルの門を跳ぶとき、必ずこの馬が使われる。
関わる神格・伝承
父はスヴァジルファリ、母はロキ。ロキを指すケニングに「スレイプニルの縁者」があるのは、この出自による。乗り手はオーディン、ときにヘルモーズ。『ヴォルスンガ・サガ』では、シグルズの愛馬グラニがスレイプニルの血を引くとされる。
サクソ・グラマティクスの『デンマーク人の事績』第一巻には、老人が青年を馬に乗せて連れ去る挿話があり、この馬をスレイプニルと見る研究者が多い。名は伏せられているが、老人はオーディンと解される。
なお、この馬に馬の神の役割は与えていない。当サイトの分類では、馬を司る神と、神である馬とを区別している。スレイプニルは後者であり、ポセイドーンやエポナと同列には置かない。
文化的足跡
アイスランドの民間伝承では、この馬は地形を作る。北部にあるアウスビルギの巨大な蹄形の峡谷は、スレイプニルが脚を降ろした跡だと語られてきた。
近代では船の名として繰り返し用いられ、現代のゲームや小説にも八本脚の馬として頻繁に登場する。ゲルマン語圏の民間伝承には、クリスマスに空を駆ける多脚の馬の話が各地に残り、これをスレイプニルの名残と見る説もある——後にサンタクロースの橇を曳く動物へつながったとする主張もあるが、こちらは実証されているとは言いがたい。
原典で一貫しているのは、この馬が誰かを別の世界へ運ぶために使われるということである。優れた乗騎であるより先に、通れない場所を通るための手段であった。
領分・別名
親・配偶者・子までを表示(全体はフル系図ページへ)。実線=主要伝承/点線=異伝・別系統。