ヘクトール
ヘクトル · ヘクター · Hektor
トロイアの王子で総大将。都市を守る義務を負って戦い、アキレウスに討たれて遺体を引き回された。
解説
概要
ヘクトール(Ἕκτωρ / Hektōr)は、トロイア王プリアモスと王妃ヘカベーの長子で、トロイア軍の総大将である。名は「支える者」「守る者」と解され、都市を支える者としての役割と重なる。
『イーリアス』は敵方の将である彼を、アキレウスと並ぶもう一つの中心として描く。妻子を持ち、都市の存続に責任を負い、負けると知りながら城門の外へ出る——この造形によって、叙事詩は勝者の側からだけでは書かれていない。ギリシアの詩が敵将にこれほどの重みを与えた例はほかにない。
神話・物語
弟パリスがヘレネーを連れ帰ったとき、彼はその行いを責めた。戦争の原因を作った者ではないが、その帰結を引き受ける立場に置かれる。
『イーリアス』第6巻、彼は城内に戻って妻アンドロマケーと会う。城壁の外へ出ないでほしいと乞う妻に、彼は「トロイアの男たちの前で戦わずにいることはできない」と答え、幼子アステュアナクスを抱こうとする。兜の羽根飾りに怯えて泣く子のために兜を脱ぎ、笑って抱き上げる場面は、この叙事詩でも例の少ない家庭の光景である。同時に彼は、都市が落ち妻が奴隷になる日を予見していると述べる。
戦場では大アイアースと一日戦って引き分け、贈り物を交換した。アキレウスが戦線を離れているあいだギリシア軍を船まで追い詰め、最後にアキレウスの武具を借りて出たパトロクロスを討つ。これがアキレウスを戦場へ戻す。
第22巻、彼は城門の前に一人残った。父母が城壁から呼びかけても入らず、逃げるべきか戦うべきかを自ら問い、結局アキレウスの前から三度城壁を巡って走る。追いつかれて討たれた彼の遺体は、戦車に繋がれて引き回された。第24巻、老王プリアモスが夜ひとり敵陣に赴いて遺体を乞い、返される。叙事詩は彼の葬礼で終わる。
図像と象徴
古代美術が繰り返し描いたのは、彼の遺体をめぐる場面——引き回しと、プリアモスによる身請け——である。生前の武勇ではなく、死後の扱いが主題になっている。
本ページの主画像は前425〜420年頃のアッティカ赤絵式カンタロス(エレトリアの絵師)で、出陣の支度をする彼に姉カッサンドラーが献酒する場面を描く。予言者である姉が結末を知りながら杯を差し出しているという読みが可能な構図である。
系譜と関係
父プリアモス、母ヘカベー。弟にパリス、ヘレノス、デーイポボス、姉妹にカッサンドラー、ポリュクセネー。妻はキリキアのテーベー王エーエティオーンの娘アンドロマケー、子はアステュアナクス。
落城の際、アステュアナクスは城壁から投げ落とされて殺され、アンドロマケーはアキレウスの子ネオプトレモスの奴隷となった。彼の死は一族の断絶をそのまま意味している。
文化的足跡
テーバイには彼の墓があり、神託に従ってトロイアから遺骨を運んだものだとパウサニアースは記す。レーソスの遺骨をアンピポリスへ移した話と同型であり、ギリシアの都市が土地の守りとして敵方の英雄を招き寄せた例にあたる。
中世ヨーロッパでは「九偉人」の一人に数えられ、異教の三英雄としてヘクトール、アレクサンドロス大王、カエサルが並べられた。滅びる側の将が騎士道の模範とされたのは、『イーリアス』の造形が翻案を通じて生き延びたためである。