アステュアナクス
アステュアナクス · スカマンドリオス · Astyanax
ヘクトールとアンドロマケーの幼い子。落城の夜に城壁から投げ落とされて殺され、トロイア王統は絶えた。
解説
概要
アステュアナクス(Ἀστυάναξ / Astyanax)は、ヘクトールとアンドロマケーの子である。本名はスカマンドリオスだが、そう呼ぶのは父だけで、市民は「都市の王」を意味するアステュアナクスと呼んだ——父が都市を支えていることに由来する名である。
彼は乳飲み子のまま殺される。物語のなかで一度も言葉を発せず、行為もしない人物でありながら、トロイア王統の断絶そのものを担っている。
神話・物語
『イーリアス』第6巻、城門での別れの場に彼はいる。父が抱こうとすると兜の羽根飾りに怯えて乳母の胸へ泣きすがり、父は兜を脱いで笑って抱き上げ、都市の王となるよう祈る。この祈りが叶わないことを読者は知っている。
落城の夜に殺されたが、下手人は資料で割れる。散逸叙事詩『小イーリアス』ではアキレウスの子ネオプトレモスが塔から投げ落とし、『イーリオスの陥落』ではオデュッセウスが落とす。ウェルギリウス、ヒュギーヌス、オウィディウス、アポロドーロスは下手人を書かず、カッサンドラーへの暴行と並ぶ略奪の一場面として記す。
エウリピデス『トロイアの女』は理由を語らせる。成長して父の仇を討つことを恐れたギリシア勢が、決議のうえで処刑するのである。母が遺体を受け取り、父の楯を棺として葬る場面で劇は閉じる。幼児殺害が軍議の決定として描かれる点で、この作品は戦争を扱ったギリシア悲劇のなかでも際立って冷たい。
図像と象徴
図像は二つに分かれる。城門での別れの場面では、母の膝から父の兜へ手を伸ばす赤子として描かれる。本ページの主画像は前370〜360年頃のアプリア赤絵式コルムナ・クラーテール(ルーヴォ出土、ルーヴォのヤッタ国立博物館)で、この場面を描く。
もうひとつは殺害の場面である。祭壇に座るプリアモスの膝に彼の死体が置かれ、その上からネオプトレモスが打ちかかるという構図で、祖父と孫の死を一つの動作に重ねている。前6世紀から用いられた図像であり、王統が二世代同時に絶たれることを示す造形である。
系譜と関係
父ヘクトール、母アンドロマケー。祖父プリアモス、祖母ヘカベー。彼の死によってプリアモスの直系は絶えた。
なお、ヘーラクレースとテスピオスの娘エピライスの子にも同名の者がおり、別人である。
文化的足跡
中世からルネサンスにかけて、彼が生き延びたとする物語が作られた。ボイアルド『恋するオルランド』では母が彼を墓に隠して別の子とすり替え、シチリアへ逃れた彼の子孫から騎士ルッジェーロが出るとされる。ジャン・ルメール・ド・ベルジュは彼を西欧へ渡らせ、フランクスと改名してガリア人の王となり、その王朝がカロリング朝に連なるとした。ロンサールの叙事詩『フランシアード』(1572年)はこの設定による。
殺された赤子を生き延びさせ、自国の王統の祖に据えるという操作は、トロイア落人伝説の典型例である。ローマがアイネイアースを祖としたのと同じ働きが、フランスでは彼に負わされた。