エーギル
エーギル · エギル · フレール
北欧神話で海を体現する巨人。妻ラーンとのあいだに波を擬人化した九人の娘をもうけた。黄金で照らした館に神々を招き、大釜で麦酒を醸す宴の主人として現れる。
解説
概要
エーギル(Ægir)は、北欧神話で海そのものを体現する存在。ヨトゥン(巨人)とされるが、神々と敵対せず、その館に彼らを招いて宴を張る。名は古ノルド語で「海」を意味する普通名詞でもあり、ゲルマン祖語 *āgwi-jaz、「水のもの」に遡るとされる。
フレール(Hlér)、ギュミル(Gymir)の名でも呼ばれる。フレールはデンマークのレスー島(古名フレースエイ=「フレールの島」)の名の由来である。ただしギュミルという名はフレイの妻ゲルズの父の名でもあり、同一人物なのか同名の別人なのかは決着していない。『詩語法』は三つの名を同じものとするが、原典が整合しているとは限らない。
神話・物語
この存在をめぐる話は、ほぼすべて宴である。
『ヒュミルの歌』では、狩りを終えた神々が酒を飲みたがり、占いによってエーギルのもとに十分な大釜があると知る。オーディンが赴き、これから度々アースのために宴を設けよと告げた。不快に思ったエーギルは条件を出す——それだけの量を醸せる大釜を持ってくるがよい。神々はそんな釜を見つけられず、そこでテュールが、遠方の巨人ヒュミルが持っていると言い出す。トールとテュールの遠征は、この一言から始まる。北欧神話でも指折りの冒険譚が、宴会の器の調達から起こっているわけである。
『ロキの口論』の舞台も、この館である。散文の前書きは、先ほどの大釜を用いた宴だと明記する。黄金が炎のように輝いて広間を照らし、麦酒は自分でひとりでに注がれ、そこは「大いなる平和の場所」であったという。給仕はフィマフェングとエルディル。神々が給仕の見事さを褒めると、それを聞いたロキがフィマフェングを殺す。神々に追われて森へ逃げたロキは、やがて戻ってきて広間へ入り、居並ぶ神々を一人ずつ罵倒しはじめる——北欧神話で最も辛辣な詩は、こうして始まる。
『詩語法』では、エーギルは聞き手の役を務める。アースガルズの宴に招かれたこの海の主が、詩の神ブラギに神話について次々と問いを発し、ブラギがそれに答える。スノッリの神話解説の枠組みそのものが、エーギルの好奇心という設定に支えられている。
図像と象徴
異教期の造形でエーギルと同定できるものはない。この存在の輪郭を伝えるのは、もっぱらケニングである。
スカルド詩は、船を「エーギルの馬」、波を「エーギルの娘たち」と呼ぶ。海そのものを指す語としては「ラーンの夫」「エーギルの娘たちの父」がある。10世紀のエギル・スカラグリームソンは、海で溺れた息子を悼む『息子を失って』で、エーギルを「麦酒鍛冶」と呼び、この存在を斬り殺してやりたいと詠んだ。海を人格として名指し、恨むことができる——擬人化がこれほど実用的に機能している例は珍しい。
黄金にまつわる言い方も、この存在から出ている。『詩語法』によれば、エーギルは館の中央に光り輝く黄金を置いて明かりとした。ヴァルハラで剣が明かりの代わりを務めるのと同じである。そこから、黄金を「エーギルの火」「ラーンの光」「エーギルの娘たちの輝き」と呼ぶ習慣が生まれた。海の底に沈む黄金と、広間を照らす黄金が、一つの言い回しに畳み込まれている。
近代の図像は19世紀ドイツに始まる。F・W・エンゲルハルトの原画に基づくF・W・ハイネの挿絵(1882年)は、海底で岩に肘をつくエーギルと、錨の綱を引く妻ラーンを描いた。スウェーデンのニルス・ブロンメールは1850年代に《水の精とエーギルの娘たち》を描き、波の娘たちの主題を絵画に持ち込んだ。長い髭と海藻をまとった老人という造形は、ギリシアのポセイドーンやローマの海神像の型を借りたものである。
関わる神格・伝承
妻はラーン。網を持ち、海に出た者を絡め取ると『詩語法』は語る。二人のあいだの九人の娘は波の擬人化で、その名は「高波」「うねり」といった海の状態を指す。息子スナイル(雪)を挙げる資料もある。
この九人の娘は、思わぬところで他の神格に接続する。ヘイムダルは九人の姉妹から生まれたとされるが、この九人をエーギルとラーンの娘たちと見る説が広く行われている。とすれば見張りの神は波から生まれたことになり、「世界の縁で生まれた」という伝承とも符合する。
神々との関係は、ヨトゥンとしては例外的である。トールが打ち倒す巨人でもなく、フレイやニョルズのように海を司る神でもない。エーギルは招く側であり、もてなす側である。神々の側から見れば、この存在は制圧すべき自然ではなく、付き合うべき相手として描かれている。海に出る民の神話らしい配置と言える。
文化的足跡
エーギルの名は、海を指す普通名詞として北欧の詩の語彙に残り続けた。近代に入ってからは、鉱物エジリン(aegirine、1835年にノルウェーで記載された輝石の一種)や、土星の衛星エーギルなど、学術的な命名に採用されている。海洋研究船や海軍艦艇にもこの名は繰り返し用いられてきた。
現代の創作では、麦酒を醸す海の巨人という設定が好んで使われる。原典に照らせば、この存在の核心は醸造でも海でもなく、「神々を家に招ける唯一の巨人」という立ち位置にある。北欧神話の主要な詩篇のうち二つが、この館で起きた出来事を語っている。
領分・別名
親・配偶者・子までを表示(全体はフル系図ページへ)。実線=主要伝承/点線=異伝・別系統。