ゲーリュオーン
ゲリュオン · ゲーリュオネウス · ゲリュオネウス
ギリシア神話の三つの体をもつ巨人。世界の西の涯エリュテイア島で赤い牛の群れを飼い、十番目の功業に来たヘーラクレースに射殺された。
解説
概要
ゲーリュオーン(Γηρυών / Geryon)は、世界の西の涯にあるエリュテイア(「赤い島」)に住んだ巨人である。メドゥーサの首から生まれたクリューサーオールと、オーケアノスの娘カリロエーの子であり、同じくメドゥーサから生まれたペーガソスの甥にあたる。
赤い毛の見事な牛の群れを飼い、双頭の犬オルトロスと牧夫エウリュティオーンにこれを守らせた。ヘーラクレースの十番目の功業はこの牛を奪うことであり、犬、牧夫、主の順に倒されていく。異形でありながら、彼は怪物というより三倍の重装歩兵として語られ、また描かれる。
登場する物語
ヘーラクレースの十二功業の第十。エウリュステウスに命じられたヘーラクレースは西へ向かう。リビュアの砂漠の暑さに苛立って太陽神ヘーリオスに矢を放ったところ、神はその胆力を愛でて、自らが夜ごと西から東へ渡るのに使う黄金の杯を貸した。英雄はこれに乗ってエリュテイアへ渡る。杯に乗って海を行く姿は、壺絵の好んだ画題である。
上陸するや、二つの頭をもつ番犬オルトロスが跳びかかった。棍棒の一撃で仕留められ、加勢に来た牧夫エウリュティオーンも同じ運命をたどる。騒ぎを聞いたゲーリュオーンは、三枚の盾と三本の槍を携え、三つの兜をかぶって追った。アンテモース川のほとりで、ヒュドラーの毒を塗った矢が額を貫く。ステーシコロスの詩は、その倒れる姿を花弁を一斉に落とす芥子の花にたとえた。
帰路も平坦ではない。ヘーラーは虻を放って牛を散らし、川を増水させて渡河を阻む。ヘーラクレースは石を積んで浅瀬をつくり、一年がかりで群れを取り戻した。ローマの伝承ではさらに一幕が加わる。アウェンティヌスの丘に棲む怪カークスが牛を後ろ向きに歩かせて盗み、鳴き交わす声から露見して殺された。この地に立てられた祭壇のあたりが、のちに家畜市場フォルム・ボアリウムとなる。
図像と象徴
前6世紀半ばから、この場面はアッティカの壺絵に急増する。デニス・ペイジは、ステーシコロスの叙事詩『ゲーリュオーン譚』の流行がその引き金になったと見た。文学の流行が図像の頻度を動かした例として、しばしば引かれる。
ルーヴル美術館所蔵のアッティカ黒絵アンフォラ(前540年頃、E グループ)が代表的な作例である。獅子の皮をまとうヘーラクレースが左から迫り、右のゲーリュオーンは三体分の盾と槍を構える。足元には牧夫エウリュティオーンが倒れている。三つの体は少しずつずらして横に並べられ、重なり合う輪郭そのものが異形を語る。
姿は資料ごとに異なる。ヘーシオドスは体一つに頭三つとし、アイスキュロスは体を三つとする。ステーシコロスは六本の手と六本の脚、そして翼を与えたと伝えられ、前6世紀半ばのカルキス式の壺には実際に有翼のゲーリュオーンが描かれた。頭と体の数が揺れる一方で、武具と構えが正規の重装歩兵のそれである点は一貫している。
関わる伝承
父はクリューサーオール、母はオーケアノスの娘カリロエー。番犬オルトロスはテューポーンとエキドナの子でケルベロスの兄弟にあたり、ゲーリュオーン自身とは血縁がない。飼い主と番犬が別の系統から来ているのは、この物語が牛泥棒の話型と怪物退治の話型を接いだ形跡と見ることもできる。
パウサニアスは、ゲーリュオーンの娘エリュテイアがヘルメースとの間にノーラークスを生み、この子がサルデーニャのノーラ市を築いたと記す。エリュテイアの位置そのものは、ギリシア人の地理知識が広がるにつれて西へ動いた。後代の著述家はこれをイベリア半島南部のタルテッソスと結びつけている。西の涯という観念が、実際の航路の伸長に合わせて更新されていったのである。
文化的足跡
ダンテ『神曲』地獄篇第17歌のゲリュオーンは、古代のそれとほとんど別物である。正直者の顔、獣の前肢、蛇の胴、蠍の毒針をもつ「詐欺の怪」として、第七圏と第八圏のあいだの断崖を降りる乗り物になる。三つの体という特徴は消え、名だけが受け継がれた。
現代では、アン・カーソンの詩集『赤の自伝』(1998年)がステーシコロスの断片を下敷きに、ゲーリュオーンを翼をもつ赤い少年として描き直している。英雄に討たれる側から神話を語り直す試みとして読まれてきた。