カークス
カクス · Cacu(エトルリア)
ローマの伝承でアウェンティヌスの丘の洞窟に棲んだ怪物。ヘルクレースの牛を後ろ向きに引いて盗み、討たれた。その死をきっかけに最大祭壇が築かれたと語られる。
解説
概要
カークス(Cacus)は、ローマ建国以前のアウェンティヌスの丘に棲んだとされる存在である。ヘルクレースがゲーリュオーンから奪って連れ帰る牛を盗み、討たれた。この一件がフォルム・ボアリウムの最大祭壇の起源譚となっており、ローマ最古層の祭祀を説明する物語として繰り返し語られた。
登場する物語
筋は資料をまたいでほぼ一致する。牛の尾をつかんで後ろ向きに洞窟へ引き入れ、足跡が外へ向かうように偽装する。ヘルクレースは、残った群れと洞窟の牛が鳴き交わす声で気づき、岩を破って中へ踏み込み、これを絞め殺す。土地に住むアルカディア人の王エウアンドロスが英雄を祝し、祭壇が築かれた。
しかし、その姿は語り手によって大きく異なる。ウェルギリウス『アエネーイス』第8巻のカークスは、ウゥルカーヌスの子で火を吐く半人半獣の怪物であり、洞窟の入口には犠牲者の首が並ぶ。対してリウィウス『ローマ建国以来の歴史』第1巻は、単に「怪力の牧人」と書いてそれ以上の異形を与えない。ハリカルナッソスのディオニュシオスも土地の盗賊とする。オウィディウス『祭暦』第1巻は火を吐かせつつ、語り口は軽い。同じ挿話が、叙事詩では怪物譚に、歴史叙述では合理化された盗賊譚になる。伝承の姿が文体と目的で変わる好例である。
妹にカーカがいたと伝えられ、兄を裏切って牛の在処を教え、その功で消えない火を守る祭祀を与えられたという。セルウィウスら注釈家が伝える断片的な話で、ウェスタの祭祀との関係が議論されてきた。
図像と象徴
古代の作例で、カークスと確実に同定できるものは乏しい。名を刻んだエトルリアの鏡や彫玉には「カク(Cacu)」という若者が竪琴を手に現れ、ウィベンナ兄弟に捕らえられる場面が描かれる。ただしこれは予言者を捕縛する別系統の物語であり、ローマの怪物カークスと同一の存在と見てよいかは定まっていない。名の一致だけを根拠に繋げないという慎重さが要る。
図像が豊かになるのは近世である。バッチョ・バンディネッリがフィレンツェのシニョリーア広場に据えた《ヘラクレスとカークス》(1534年)は、英雄が屈み込んだ相手の髪をつかんで見下ろす群像で、ミケランジェロの《ダヴィデ》と並ぶ位置に立つ。両者を比較する当時の酷評は、美術批評の古典的な事例として知られる。版画では、ゼバルト・ベーハムが洞窟での格闘を、ヤーコプ・ヨルダーンスが牛を引き去る場面を選んだ。
関わる伝承
討ち手はヘルクレース、牛はもともとゲーリュオーンのものである。父をウゥルカーヌスとするのはウェルギリウスの設定で、火を吐く性質はここから来る。パラティヌスの丘の階段は「カークスの階段(スカーラエ・カーキー)」と呼ばれ、地名として名を残した。名を古典ギリシア語の κακός(悪しき)に結びつける説明は古代からあるが、イタリア土着の名と見るほうが自然である。
文化的足跡
ダンテ『神曲』地獄篇第25歌のカーコは、古代の姿から離れている。盗人の圏に置かれ、蛇に覆われた半人半馬として現れ、肩には火を吐く竜がとまる。ヘルクレースの棍棒に打たれた盗人という一点だけが受け継がれ、造形は中世の想像力で組み直された。ゲーリュオーンが「詐欺の怪」に姿を変えたのと同じ手つきである。
領分・別名
親・配偶者・子までを表示(全体はフル系図ページへ)。実線=主要伝承/点線=異伝・別系統。