ダヌ
ダナ · ダナン · Danann
トゥアハ・デ・ダナーン(ダヌ神族)の名にのみ残る女神。中世の文献に単独の記述はなく、その存在そのものが近代の再構成による。
解説
概要
ダヌ(Danu)は、アイルランド神話の女神とされる存在である。ただし、この形の名は中世アイルランドの文献に一度も現れない。伝わるのは属格の Danann(Donand、Danand とも)だけであり、しかもそれはトゥアハ・デ・ダナーン——「ダヌ女神の民」——という集合名のなかにしかない。主格 Danu は、その属格から近代の学者が復元した形である。
物語も伝説も、一つとして残っていない。それにもかかわらず、19世紀のヴィクトリア朝の民俗学者たちは、この名に母性や農耕の繁栄といった属性を与えていった。今日「ケルトの母なる女神ダヌ」として流通する像は、そのようにして形づくられたものである。
由来と物語
語源には長い議論がある。19世紀以来しばしば引かれてきたのは、ヴェーダの水の女神ダーヌとの結びつきである。ダーヌの名は印欧祖語 *dʰenh₂-(走る、流れる)に遡り、ドナウ川の古名ダヌウィウスもこの語根に連なるとされる。ドナウ川の名がケルト語起源である可能性はあるが、スキタイ語からケルト語への早い時期の借用とみる説もあり、決着していない。
シャロン・マクラウドは、むしろ古アイルランド語の dán(技芸)との関係を見る。初期アイルランドでは職人や技能者を aes dána(技の人々)と呼んだ。言語学者エリック・ハンプは2002年の考察で従来の語源をいずれも退け、ラテン語 bonus(古ラテン語 duenos)と同じ印欧祖語 dueno-(善い)に遡るケルト祖語の n 語幹 Duonū(「高貴なる者」)を提案している。
文献のなかでダヌに最も近い位置にいるのは、デルバイスの娘ダナンドである。『アイルランド来寇の書』は、トゥアハ・デ・ダナーンの名がダナンドとデルバイスの三子ブリアン、ユハル、ユハルバに由来すると記す。この三人は「ダナンの神々」と呼ばれる。マクラウドは、むしろ工匠神ゴヴニュ、ルフタ、クレーニュの三人のほうがその呼び名にふさわしいと指摘する。
もう一つ、女神アヌ(Anu、屈折形は Anann / Anand)との関係がある。『サナス・コルマク』はアヌを「神々の母」と呼ぶ。ダヌをアヌの異形とみる説があり、その場合 Danu は *di[a] Anu(女神アヌ)の縮約ということになる。アヌはモリガンの別名として現れることもあり、三者はしばしば重ねて論じられる。ケリー州には「アヌの乳房」と呼ばれる一対の丘があり、豊穣との結びつきを示すとされる。
図像と象徴
図像はない。像も、持物も、姿の描写も伝わらない。名だけが、それも他の名の一部として残っている。
このことは、アイルランドの神々の伝わり方を考えるうえで示唆的である。中世の写字生は異教の神々を「種族」として歴史の枠に整理したが、その種族の名の由来となった女神本人については何も書かなかった。書く必要がなかったのか、すでに知られていなかったのか、あるいは最初から存在しなかったのか。判断する材料がない。
関わる伝承
ウェールズの『マビノギオン』に現れるドーンとの並行がしばしば論じられる。ドーンの子には工匠神ゴヴァノンがおり、これはアイルランドのゴヴニュに対応する。かつてはドーンの名も川に関わる語根に遡ると考えられ、両者を同じ女神とみる研究者が多かった。ただし今日では、ドーンを印欧祖語の *ǵhdʰom-(大地)に遡らせる読みのほうが有力で、名の系統としては別語とみるのが慎重な立場である。『マビノギオン』はドーンの性別を明示しておらず、中世ウェールズの好古家のなかにはドーンを男性と解した者もいた。
ヒンドゥーの女神ダーヌ(アスラたちの母)との名の一致は、印欧語族の共通の遺産を示すとも、偶然の類似ともとれる。仮に同源であるとしても、それは名の系統の話であって、神格の内容が受け継がれたことを意味しない。
文化的足跡
ダヌをケルトの大地母神とする像は、19世紀から20世紀初頭のケルト復興と比較神話学が作り上げたものである。史料の空白を、印欧語族に共通する母なる女神という枠組みで埋めた結果だった。現代の異教復興運動や幻想文学、ゲーム作品はこの像を受け継ぎ、原典よりもはるかに具体的な人格を与えている。
この項目が伝えるのは、一柱の女神の事績ではない。名だけが残ったとき、後世がそこに何を書き込むかということである。トゥアハ・デ・ダナーンという語が生き延びたために、その語源となる女神が要請され、必要な属性が与えられた。
領分・別名
親・配偶者・子までを表示(全体はフル系図ページへ)。実線=主要伝承/点線=異伝・別系統。