サタン
サタン · サーターン · 悪魔
アブラハムの諸宗教における「対抗者」。ヘブライ語では定冠詞つきの普通名詞「告発者」であり、ヨブ記では神に仕える天の法廷の検察官であった。第二神殿期に独立した悪の勢力の長となり、新約で「この世の君」となる。イスラームでは天使でなくジンである。
解説
概要
サタンは、アブラハムの諸宗教における存在であり、人を罪あるいは偽りへ誘う。
ユダヤ教において、サタンは神に従属する働き手とみなされ、典型的にはイェツェル・ハラー(悪しき傾き)の比喩と解される。キリスト教とイスラームにおいては、通常、神に反逆した堕天使あるいはジンとみなされる。
本項は、この存在を人格の伝記としてではなく、「対抗者」という位置がどう変わったかの概念史として扱う。
語
ヘブライ語の「サーターン」は普通名詞であり、「敵対する者」「妨げる者」「告発者」を意味する。
定冠詞つき。 旧約聖書の大半の箇所において、この語は「ハ・サーターン」——定冠詞つき——で現れる。すなわち固有名詞ではなく、役職を指す。
人にも用いる。 『サムエル記上』29章4節では、ダビデが「戦いにおいて我らのサーターンとなる」と言われる。人間にも用いられる語である。
第一段階:ヨブ記の告発者
『ヨブ記』1〜2章において、ハ・サーターンは天の会議に列席する。
神に仕える。 神の前に現れ、地を巡ってきたと報告する。
検察官。 ヨブの信仰が利害によるものではないかと問い、神の許可を得てこれを試す。
神の許可の下で働く。 独自の権能を持たない。神が許した範囲でのみ行動する。
悪の君主ではない。 ここでのサーターンは、天の法廷における告発者である。神の敵ではない。
『ゼカリヤ書』3章、『歴代誌上』21章も同様である。
第二段階:第二神殿期の分離
前2世紀以降の文書において、この位置が変わる。
マステマ。 『ヨベル書』において、マステマが悪しき霊の長として現れ、神から一定の独立を得る。
ベリアル。 死海文書において、ベリアルが光の子らと戦う闇の勢力の長となる。
二元論。 ゾロアスター教の影響を指摘する説がある。アンラ・マンユのような、神に対抗する独立した悪の原理という構図である。
告発者から敵へ。 神に仕える検察官が、神に敵対する勢力の長になる。
第三段階:新約と「この世の君」
新約聖書において、サタンは明確な敵対者である。
荒野の誘惑。 イエスを試み、世界の王国を与えると申し出る。
この世の君。 『ヨハネによる福音書』は、サタンを「この世の君」と呼ぶ。
黙示録。 竜、古い蛇、悪魔、サタンが同一視され、最後に投げ込まれる。
堕天使の物語。 ただし「天から堕ちた」という物語は、新約聖書に明示されない。教父の解釈とルシファーの伝承によって形成された。
第四段階:イスラームのシャイターン
イスラームにおいて、シャイターン(複数形シャヤーティーン)は誘惑する存在の総称である。
イブリース。 その長はイブリースであり、天使ではなくジンである。
火から作られた。 天使が光から、人が土から、ジンが火から作られたとされる。
跪拝の拒否。 イブリースの堕落は、アダムへの跪拝を拒んだことによる。「私は彼より優れている。私は火から、彼は土から作られた」
理由が異なる。 キリスト教では神への反逆、イスラームでは人への跪拝の拒否である。何を拒んだかが異なる。
図像と象徴
本サイトが掲げるのは、『ギガス写本』(13世紀)の悪魔の図である。
角と蹄。 角、蹄、尾を持つ姿は中世に定着した。パーン、ファウヌスなど異教の神の図像が転用されたとする説がある。
関わる神格・伝承
ベリアル、ベルゼブブ、ルシファーと同一視される。イブリースに対応。
文化的足跡
ミルトン『失楽園』(1667年)のサタンは、堂々たる反逆者として描かれた。ロマン主義以降、この人物像が悪魔の理解を大きく規定した。
なおユダヤ教・キリスト教・イスラームは今日も信仰されている生きた宗教であり、本項の記述はその伝承と観念の歴史に関する学術的な整理である。