ヘレー
ヘッレー · ヘレ · Helle
プリクソスの妹。黄金の羊に乗って逃れる途中で海に落ちて死に、その海はヘレースポントスと呼ばれるようになった。
解説
概要
ヘレー(Ἕλλη / Helle)は、ボイオーティアのオルコメノス王アタマースと雲の女神ネペレーの娘で、プリクソスの妹である。継母イーノーの企みから黄金の羊に乗って逃れる途中、海に落ちて死んだ。その海がヘレースポントス——「ヘレーの海」、今日のダーダネルス海峡——と呼ばれるようになった。
物語のなかで、この少女に与えられた役はただ一つ、落ちることである。だがその一点によって、ギリシア人がヨーロッパとアジアの境と考えた海峡に名が刻まれた。
神話・物語
継母イーノーが種麦を焙らせて飢饉を装い、買収した使者に偽の神託を語らせたため、兄妹は犠牲として山頂へ引き立てられた。実母ネペレーの遣わした黄金の羊が現れ、二人を背に乗せて東へ飛ぶ。
海峡の上で、ヘレーは羊の背から滑り落ちて溺れた。なぜ落ちたのかを、伝えは説明しない。眩暈に襲われたとも、下を見て怖れたとも書かれるが、いずれも後代の補足である。兄は掴まり続け、妹は落ちる——この非対称に理由が与えられていないことが、かえってこの挿話を印象づけてきた。
異伝もある。溺死せず、ポセイドーンに助けられてその子パイオーン(あるいはエードーノス、あるいはアルモス)を生んだとするものである。海に落ちた乙女が海神に迎えられるという型で、ギリシアの地名起源譚にしばしば見られる形をとる。
ヘレースポントスの名は、この物語から取られたものと古代人自身が説明していた。ただし、地名が先にあって物語が後から作られた可能性も指摘されている。ヘレーという名がヘッラス(ギリシア)に通じることから、ギリシア人の名を負う海峡という理解を裏づけるために生まれた人物とみる説である。神話の人物と地名のどちらが先かは、この種の由来譚ではしばしば決めがたい。
図像と象徴
ヘレーを単独で表した古代の作例はない。描かれるのはつねに羊に乗って渡る場面で、そこでは兄がしがみつき、妹が落ちかけている。落下という動きが画面に緊張を与えるため、この主題は繰り返し選ばれた。
本項に掲げたのは、後2世紀末の銀鏡の背面浮彫(ローマ、パラッツォ・マッシモ・アッレ・テルメ)である。日用の鏡の裏に神話が刻まれるという、ローマ期の工芸品の性格をよく示す作例でもある。ポンペイの壁画をはじめ、同じ主題の作例は各地に残る。
系譜と関係
父アタマース、母ネペレー。兄プリクソス。継母イーノー。異伝ではポセイドーンとのあいだに子をもうけたとされる。兄がコルキスに至って金羊毛をもたらすのに対し、妹は道半ばで失われる。犠牲を逃れた兄妹のうち一人だけが生き延びるという構図は、供犠の物語がなお犠牲を要求していると読むこともできる。
文化的足跡
ヘレースポントスは古代を通じてヨーロッパとアジアの境として意識され、クセルクセスの渡海、レアンドロスとヘーローの物語、そしてバイロンによるその泳ぎ渡りの試みまで、幾度も歴史と文学の舞台となった。落ちた少女の名が、東西を分ける水の名として残り続けたことになる。