ヘケト
ヘケト女神 · ヘケット · ヘクト
蛙の姿で表されるエジプトの出産の女神。クヌムの配偶神とされ、形づくられた子の身体に息を吹き込む役を負った。産婦は蛙形の護符を身につけたとみられる。
解説
概要
ヘケト(ḥqt / Heqet)は、蛙の姿で表されるエジプト神話の出産の女神である。羊頭の創造神クヌムの女性形、あるいはその妻とされた。
蛙が選ばれた理由は分かりやすい。増水が引いたあとの湿地には蛙が大量に現れる。数の多さと水との結びつきが、そのまま多産の徴として読まれた。祭祀は初期王朝期にさかのぼり、第2王朝のヘルワンに葬られた高位の人物の名にこの女神の名が含まれている。
神話・物語
ヘケトの職掌は出産の最後の局面にある。クヌムが轆轤の上で子の身体を形づくるなら、その身体に息を吹き込んで生かすのがヘケトである。オシリス神話では、生まれ出たホルスに命を吹き込む役を負う。ホルスの誕生がオシリスの復活と重ね合わされていくにつれ、この女神の役目も再生そのものへと近づいていった。
中王国期に「出産を早める者」の称号が現れる。『ウェストカー・パピルス』では、第5王朝最初の三王が生まれる場にイシス・ネフティス・メスケネトとともに産婆として立ち会い、クヌムが子らの身体に健康を与える。神々が分業で出産にあたる、この文学のもっとも具体的な場面である。
のちにクヌムの配偶神の座はサテトへ移った。エレファンティネの神学が整えられるなかで、古い組み合わせが置き換えられたことになる。
図像と象徴
蛙そのもの、あるいは蛙の頭をもつ女性として表される。初期王朝期の蛙形小像の多くはこの女神を象ったものと考えられている。
残るものの中心は護符である。産婦は蛙形の護符を身につけて安産を願ったとみられ、印章の底面に蛙を彫ったものも多い。神殿の壁面よりも、手に握る小さな物のほうにこの女神は多く残った。
古代の図版としてこの女神を確実に同定できる作例が乏しいため、本サイトでは主画像を置いていない。図像がないこと自体が、この女神の在り方——大神殿の壁ではなく、産室の護符に宿る神——を示している。
系譜と関係
クヌムの妻。ヘル・ウル(大ホルス)の母とされることもある。クス(現キーフト近郊)には、プトレマイオス朝に建てられたホルスとヘケトの神殿があった。
デンデラのマンミシをはじめ、出産を扱う建物ではタウエレトやベスと同じ場面に現れる。系譜より、産室という場が神々を結びつけている。
文化的足跡
復活との結びつきは、キリスト教時代まで残った。エジプトで作られた蛙形の護符には、十字や仔羊の意匠とともに「我は復活なり」の銘を刻んだものがある。異なる宗教の下で、蛙という記号だけが意味を保って残った例である。
なお、ヘケトの名がギリシアの女神ヘカテーの語源だとする説がしばしば紹介される。だが音の近さ以上の根拠は示されておらず、学界の一致を得た説明ではない。
領分・別名
親・配偶者・子までを表示(全体はフル系図ページへ)。実線=主要伝承/点線=異伝・別系統。